第9章 地域経済と振興
(REAJIONAL ECONOMY AND ITS DEVELOPPEMENT)



 第1節 地域経済の基本問題

 はじめに

 ここに慎んで故斎藤博教授に哀悼の意を捧げるものである。筆者は教授より指導を受けた者の一人として、以下の拙稿を御仏前に捧げて供養したい。ところで、筆者と地域経済論との関わりは、既に20年に及び、今回これまでの研究を振り返り、今後の研究の手がかりとするために、敢えて以下のような内容で取りまとめた次第である。多くの先学・先輩諸兄からすれば、極めて奇異に感じられるかも知れないが、地域経済や地方財政に関する常日頃の調査・研究を通して悩み、考えていることを素直に述べたものである。研究論文として踏まえるべき、体系、データ、文献考証などを一切無視したものであることをお断りしておきたい。
 ともあれ、世界経済・政治・社会などの枠組みが大きく変化する中にあって、東京一極集中のもと、地域は開発による影響、地域経済構造の変動などに対して、いずれの地域においても、当面する課題は山積しており、かつ根は深い。このような課題に対して、経済学は、何をなすべきなのか。
 このような問題意識から、本稿を取りまとめてみた。地域経済・社会の様々な問題に取り組んでいる方々に、多少なりとも参考になれば幸いである。

 経済学と人間の問題
  ─── 地域経済論の1つの試論 ───

 そもそも経済学と人間、社会科学と人間ということに関しては、筆者の知り得る限り、今まであまり真剣に問題にされてこなかったように思える。従って、今ここで議論を展開するにあたり、素材らしきものを準備していない。それよりも、こうした問題に対しては、筆者の能力をはるかに越えるものであることを認めざるを得ない。しかし、ここで敢えて、社会科学が人間の内面にまで立ち入って考察すべきであるという点に踏み込んでみたい。
 社会科学と人間という広い領域においては、このような問題に関する文献が散見されるが、たぶん人間の問題は、マルクス主義の発想では、経済及び社会の発展に関する法則に従属するものと捉えられるから、この人間の問題は副次的な問題として扱われている、といってよい。しかしこれは、幅広く社会科学をカバーしていなければ、不確かな言い方になると思われるかもしれない。
 近代経済学、現代経済学では思い切った数量化によって、経済・社会の因果関係を説明しようとするので、なおさらである。例えば産業連関分析によって、波及効果を計測したり、経済動向を予測し、更に政策的対応を考えようとするときには、人間の問題はほとんど予見に入れられていないので、分析結果は純粋に経済の次元で吟味される。
 しかし筆者は、このような数量化による計測や予測が有効でないなどと言うつもりはない。人間の価値判断や行動は、きわめて経済合理的であると同時に、これまた反面きわめて非合理的で矛盾しているので、総体としての傾向や方向性を出し、人間が実際に行う判断や行動に、一定の指針を与えることには絶大な効果を発揮する。
 もう1度マルクス主義に戻ると、経済社会法則が客観に発現して、社会現象、経済現象を作り出すというふうに捉えられるから、所詮この領域というのは、人間の問題というのを2次的なものとして排除せざるを得ない。それがある意味では科学たる由縁である。つまり人間の感情とか感性とか、あるいは生前だとか来世だとかというようなことを取り入れること自体が、所詮非科学的な領域であり、従って宗教から科学へと発展してきたのはそれ自体自然なことであった。
 宗教の世界では、人の根源的かつ根本的な幸福を保障することはできても、人間が経済・社会・制度的な面に関わる領域で、これを保障することはできない。ただ、人間の心のよりどころとしては、人間を開放することは可能である。これは現代科学が軽視した側面である。しかし人間の問題を仮に社会科学なり経済学、あるいは社会現象なり経済現象に取り入れようとしても、それはせいぜい副次的な取入れ方内にすぎないように思える。というのは、よく考えてみると、経済、社会、法律、また範囲を広げて科学技術、天文学、如何なる学問領域をとっても結局人間と切り離せない課題を追っている現実がある。
 天文学は宇宙の根源を問うことを目的としている。宇宙誕生の謎に迫り、その将来を予測するところにまで発展しているが、そのような問いかけを通じて人間の根源を問うているわけである。経済学もその創世期において、例えばアダム・スミスに例をとれば、利己的な存在としての個人の本質に迫り、経済や国家の解明にまで及んだものであった。経済現象を解明し、そこから政策的な対応を考えようとしたその後の努力も、結局人間の幸せを願ってのことであった。有効需要の理論により、不況の原因を解明し、公共投資などによる財政策論を展開したケインズにおいてもそうであった。
 法律の分野でも、中心は法律の解釈論であっても、その解釈の背後は常に人間が対待している。法律の解釈が深められ、判例が積み重ねられても、時代の変化と共に人間の価値観が変化すれば、解釈や条文そのものを変更せざるを得ないケースが生じてくる。脳死の判定をどう見るかは、「死」をどう考えるかという倫理・宗教の世界に関わる問題でもある。
 このように考えてみると、やはりこの辺りで様々な学問領域、とりわけ経済学の方法について、もう1度人間・人を真正面から捉え、たとえ経済現象や社会現象が独立・客観的に動く法則だとしても、今1度人間との関わりを十分考えた方がいいのではないか。
 しかし、その根拠を科学的に語ることは極めて困難がつきまとう。1991年8月のソ連の軍部によるクーデターを見ても、本来なら細かく分析し、政治学的に解明し始めて真相を語ることが可能なのであるが、結局、軍部がクーデターを起こしたときに、これを3日天下に終らせたのはソ連、とりわけロシアの国民だった。あれだけ国民が結束してクーデターを「未然」に防いだことは注目していい。
 レーニン以来、社会主義が永遠の国家の理想だと考えられていた国でさえ、結局行き着いてみるとそこには人間という大きな壁があった。物資が恒常的に不足し、長い行列を作らなければ手に入らないという現状、自由が保障されない、外国へ行こうと思っても壁がある、様々な問題を抱えている、社会主義のペレストロイカ路線の出現と混迷である。
 いずれにしても、クーデターを短期に終らせたのは結局人間、人のスクラムだった。だから社会主義とか経済法則とか理念や主義主張の前に必ず人間というものが、それを動かす根本的原動力として存在しているという事実に、思いを致さなければならない。それ以上科学的に説明できる素材は、当面用意することが出来ない。
 そこで、地域経済の領域に焦点をあてて、以上のような問題を考えてみたい。地域経済はいうまでもなく、人間の労働・生活・消費・文化活動が地域と密接にかかわり合い、人間の日常的営みをより根源的に考察するための豊富な素材を提供してくれるからである。企業経営にしても、グローバル・ナショナルな動向を反映しながらなおかつ、人間の最も素朴で自然な営みとの関わりで考えさせてくれる素材を、豊富に提供してくれるからである。

 地域経済と人間

  3Kと二重構造

 まず3Kという問題を考えてみたい。これは地域経済だけでなく、現在の日本経済の抱えている問題である。また、学生の就職問題を担当していて、学生達が最も嫌う職場・職種でもある。メーカーを主として職場の状況をさす言葉で「暗い・きつい・汚い」職場・業界であることは周知のところである。3Kの根本問題には、日本の経済構造が全てそこに集約されていると筆者は分析している。
 ところで、メーカーを中心として、運輸建設業界のように、3Kとして嫌われる業界に対して、きれいにすれば良いではないかという提案がすぐに出てくる。整理整頓して明るくして、花をいけて、幾からでもきれいに出来るのではないかと。整然とオートーメーション化して、出来るのではないかと思われるが、やはりメーカーというのは日本の中小企業の代名詞であり、そのほとんどが親企業の下請けの仕事をしていることは、ここで今更いうまでもないことである。
 教科書的にいえば下請けとは、親企業、例えば日産とかトヨタとかの部品の生産、加工等々、親企業がやるよりも、小回りの効く中小企業がやった方が効率的にできるものを、親企業からの委託で、仕事をしている業種・業界であり、しかも、親企業との力関係では、弱い地位にある。好況や苦境の安全弁にされている、そういう日本の生産システムの特色だと誰もが答える。それ故に日本経済は戦後これ程までにめざましい発展をとげた。
 このようないわゆる「二重構造」の代名詞である下請取引関係ではあるが、この中にも実は、様々な屈折した諸相があることを忘れてはならない。“脱下請”“多角化”“異業種交流”“融合化”などと、中小企業戦略がもてはやされる昨今、この方向性は正しいとしても、いまなおよく見極めておかなければならない問題が多々ある。
 例えば、ある大手メーカーによれば、下請けを使ってくれとか、なるべく下請けが自立してくれるようにしてくれとかいうけれど、それは所詮理想であるという。なぜなら昭和60年のG5を契機とした円高不況の中で、61年、62年というのは、やはり親企業といえども苦境に立たされたわけである。図体が大きいだけ、雇っている人数が大きいだけに、この大きな軍艦が沈没するとみんな食えなくなるという実状がある。辛いのは中小企業も大企業も同じなのである。
 その苦しいときに、大手の企業が仕事がないのにわざわざ仕事を作って下請に廻しているという現実があるというのである。こういう次元の話をすると、円高で下請けが虐められている。そしてあるメーカーのように「乾いた雑巾でもしぼれば水がでる」のような、冷酷な合理化政策をやっている現実に対して、反発を食らうかも知れない。
 しかし、親企業でさえ苦しい状況の時、無理をして仕事を作って下請けに廻して、下請けが沈没しないように守っているという側面もある。親企業の言葉を借りれば、まさに「浪速節の世界」での仕事の融通である。この点をよく押さえておかないと、単に大企業=悪、中小企業=善の世界に入り込んでしまう。そういう「浪速節の世界」が通るのは機械系で、わりと重厚重大なメーカーが多い。細かい精密機械とか超エレクトロニクス企業から比べると、浪速節的な要素が強い。1番冷酷無比なのは、下請けに対し有無を言わさず技術力水準が上がらないからと、切り捨てていく超エレクトロニクスである。
 いずれにしても、ピラミッド型の下請取引構造の中で、下請企業が守られているという側面があることは事実である。だから日本の経済は昭和30年代以降発展したのである。これは、森林によって生活の安全が守られ、また生活の糧をそこから引き出してきた東洋の、とりわけ日本文化、社会、経済も基本構造の具体的な現れとも考えることが可能である。「イエス・ノー」、「二者択一」を問わない。しかし、いつも大樹の陰で生活や経済が守られてきた東洋型経済社会の特質を見て取ることが出来る。生まれては死に、死んではまた生まれる、輪廻の思想、仏教的世界である。
 筆者自信よく主張することは、こういう時代だから親企業から出来るだけはなれ、もちろん全面的に切ってしまうわけにはいかないが、親企業への依存度をなるべく減らして、その分、商品開発・研究開発をして、多角化していくべきではないかということであるが、それが浪速節的世界の中で通らない。反感を買い、苦言を提せられたこともある。しかし、あくまでもそうはいっていられないので、なるべく親企業への依存度を下げて、なるべく自立した側面をもつように事業体は努力していくべきである。だからそこまで3K、下請け取引の問題、あるいは構造の問題を、人間の領域まで十分掘り下げていかないと、そういう分析なしのところからでてくるあり方、方法論、方策が現実には通らないということになってしまう。
 ではどうやっていくか。せめて親企業の生産技術開発に積極的に提案できるよう情報発信型中小企業に脱皮していかなければならない。100%大手企業に売上を依存していてもいいから、大手会社がこの下請けが絶対必要であり、そしてこの協力会社がどんどんどんどん提案してきてくれるというような形にもっていかなければいならない。3Kの問題もそういう努力の中で「暗い・きつい・汚い」というイメージを改善しながら、そこに勤めている大勢の従業員の幸福を見いだせる様にしなくてはならない。
 大半の中小企業、零細メーカーは、未だに従業員を「モノ」としか考えていない。だから現実に対して反省をしなければならない。働いてくれる、生産効率を上げてくれるとしか考えていない現実である。企業の人事政策の中で、「人間重視」という対応に関しても、真に労働者、従業員を大切にするような経営方針で見直さなければならないない。
 ここに、企業と人間のあり方を問うべき根拠がある。「企業経営の人間化」の提案である。これは、単なる「労使協調」をはるかに越えた次元の話である。人間は生計を維持するために働かなければならないという以前に、道徳的、倫理的な存在である。暮しを立てるために、その一部を犠牲にして、モノと扱われたのでは、究極の精神的充足感は得られない。
 優れた経営者は優れた経営者であるといわれる。一歩譲歩して、企業経営、経済のシステムの中に人間の尊厳を実現できる領域を広めて行かなければならない。このような視点に立って、生産と労働のシステムを見直すと、「二重構造」に変わる新たな生産システムが現れるに違いないが、未だ我々はそれがどのようなものであるかを知らない。

 リゾート開発の現実

 次に、リゾート開発の問題を取り上げよう。この問題については、筆者も含めて、実に多様な研究が行われているので、開発計画登場の経緯や構想の内容、実態、問題点などについては省略する。
 リゾート開発といわれる開発は、何も今回が初めてではないが、戦後の一連の開発の中で、昭和63年の「リゾート法」成立以降が一番大きなブームであろう。それ以前にもブームはあったが、これ程までにゴルフ場、マリーナ、マンション、スキー場、リゾートホテルをすべて巻き込んで、しかも地方自治体や地域・住民を巻き込んでブームになったのは今度が初めてだろう。
 筆者は、大学の講義や地方自治体の研修でしばしばリゾート開発の問題を取り上げ、レポート作成をしてもらうのだが、受講者中の8〜9割は、もし試験で「リゾート開発と対応のあり方如何」という問題を提示すると、今進められているリゾート開発に否定的なレポートを書く。賛成でも反対でもどちらでも良いから、必ず実態をよく踏まえて自由に書くようにと指示しても、まず、概ね賛成というのは出てこない。残りの1〜2割が慎重に進めるべきだというトーンである。「美しい自然が壊される、農薬が河川に入り込み、河川や飲み水が汚染される危険性がある。そして一部の金持ちだけのリゾートではないか」など、否定的なレポートが圧倒的である。
 現実がそうだからこれはこれでいいと思う。しかしこの問題をもう少し掘り下げてみると、リゾート開発是非論という問題のたて方だけでは解決し得ない問題が山ほどある。
 新聞・テレビなどマスコミは、リゾート開発是非というたて方をよくする。そうしないと見ている側にとって面白くないからである。
 あるテレビ会社がやってきて、ある自治体が進めているリゾート開発計画に対する意見を求められたので、これに応じたところ、結局できあがった番組は、「作る側優先の開発で、利用者は不在…」という構成に落ち着いていた。それではどうしたら良いかというところがすっぽり抜け落ちていて、筆者はどうやら、リゾート計画反対教授に写っていた。
 こういうことは、マスコミの取材の応じると良くあることなので、不本意とは思うが、最近は余り気にしないでいる。むしろ気になるのは、問題の立て方そのものである。
 まず、ゴルフ場を造る際の買収の問題を取り上げよう。ゴルフ場開発で誰が儲るかといえば、直接的にはそのゴルフ場を企画・開発して運営する会社であろう。相場が急上昇しているときなら、会員権が当初の1,000万が2,3年で4〜5,000万になるケースは、高級なゴルフ場の場合ざらである。いまだに会員権が150万とか200万というゴルフ場もある。しかし、いずれにしても初期投資に対するキャピタルゲインは巨額なものである。そして、現在の税制は、かかるキャピタルゲインに対して、高度累進課税を適用しておらず、抜け穴も多い。
 従っていくら土地の買収や造成に資金をかけても、後々莫大なカネが入るから、自治体職員や議員の買収や工作費用にいくらカネを使っても痛くも痒くもなく、ペイするのである。現実にそういうことが行われており、ゴルフ場建設に絡む汚職、買収、疑惑などがマスコミを賑わしたことは周知のところである。
 昭和60年前後に東京を中心として、非常に地価が上昇したときに、それを押さえるために、各都道府県に地価監視区域を設けて、土地を一定規模以上売買するときは、届出なければならないとする地価監視区域が拡大された。もしゴルフ場を開発する土地が、国土法にもとづく地価監視区域になっている場合、他の売買と同様に、もし、異常に高すぎる金額で取り引きされるときは、地方自治体は是正勧告をすることが出来る。それで最近は地価が安定してきた。従ってその場合にも、高すぎるからということで規制をされるし、国土法の規定で2,000平米以上の土地には売買価格の上限がある。
 しかし、実際にはそういう値段では、地主は土地を売らない。先祖代々もってきた土地、山林だからそんな安い金で売るのであればもう少し持っていて、地価が上がるのを待った方がいいし、杉や桧の木が育つまで待っていて木を売ればいいということになるから、実際には裏金が動くというケースがある。上限として定められた金額に上乗せし、別途カネを動かすのである。
 こうなってくると、善いか悪いかという二者択一の問題ではなく、そういうことをいったいどうするのかという問題のたて方にしないと解決策にも何にもならない。まして、売らなければならない事情のある地主の立場を考慮にいれなければ、反対運動一辺倒となるが、それは当事者だけの話ということになってしまう。
 リゾート開発は森林を削ることによって、水源涵養機能を弱めるほか水害の危険性も生じることになる。ましてゴルフ場の場合は農薬がでるから反対だと反対運動をすれば、それはいくらでもできるが、反対をする場合に以上のような点がすっぽりと落ちてしまう。知っていても、それは地主の勝手だということになってしまう。そういう個人的な私利私欲よりも、水源涵養や国土の保全の方が大事だという観点から、上の問題を案外軽視してしまうという問題である。
 ゴルフ場建設が行われる地域は、すでに山あいの奥地になっており、そこではいまだに簡易水道の整備すらなく、雨が降ると水が濁るし、日照りが続くと水がなくなるという地域もある。そういう地域では、ゴルフ場計画に際して、開発業者が自治体に変わって簡易水道を設けるという話も聞いている。
 また、自治体に焦点を併せて考えてみると、人口が流出して過疎化が進んでいる自治体は深刻である。勤めている公務員にしてみれば、人口が減少していけば、小中学校が統廃合されて、消防団活動も維持できなくなり、徐々に税収が減って、やがて町村役場が消えてなくなるのではないかという問題に遭遇してくる。他人のことだからどうでも良いというかも知れないが、自分の仕事場所がなくなるというのはすごく辛いことである。だから、そういうことにも配慮して対応を考えなければならない。
 そういう面では、その自治体が血眼になってリゾート開発に走っていても、一概にこれを侮れないことを理解しておくべきである。そういうことを考えれば、地方自治体の存立を守り続けようとするならば、何等かの企業誘致とかリゾート開発というのも、一応考慮にいれておかなければならない。
 しかし、ゴルフ場開発が地域の根本的な活性化につながらないことは明白である。地方自治体に入ってくる地方税収は少なくないとしても、雇用吸収力や産業連関的な結び付きは概して弱いのである。当該地域にホテル、旅館があればまだカネは落ちるかも知れないが、なければゴルフ客はその地域を「通過」してしまう。しかしそれ以上の地域振興策があるかといわれると、村おこしにしてもそれで過疎にブレーキがかかったという話は、あまりきいたことがない。せめて人口現象にブレーキがかかるくらいである。
 結局、ゴルフ場開発是非ではなく、そういう人間のレベルで考えてあげて、ゴルフ場しかないとするならば、地主もOKしていて、環境破壊もそこそこに食い止められる、開発をする業者もまあまあ良心的だとするならば、ある程度目をつぶるざるを得ないこともある。ゴルフ場ではなく総合レジャーランドのようなものへと計画を変更してもらうことも必要であるかも知れない。その場合にも環境に与えるマイナス要因を科学力や現代土木技術を駆使して極力小さくする努力をしなければならない。
 森林を、杉、桧を草地なり芝に変えてしまうと、水源涵養力が極端に落ちることは実験結果が示している。そこで洪水の危険性が出てくるし、飲み水が足りなくなる事態も出てくる。地下水の涵養力がなくなり、地下水に飲み水を依存している地域では問題が生じる。草地の上をサッと水が流れて、1日か2日で水が海へ流れていってしまう。ところが森林の場合には、徐々に地中の中へ貯えられ、徐々に河に流れ、割れ目などから広大な地下水を形成する。それが数日から2週間たって下流に流れてくる。
 しかし、自治体独自の判断から、もしOKを出さざるを得なかったときに、ゴルフ場の建設に対して、一部、数カ所に地下に雨水が流出していくような土木工法を取るとか、急に河川の流量が増えることを防ぐために、別途調整池を設けて緩和したり、あるいは、別の水路を設けさせることが必要である。
 現代の土木技術をもってすれば、これは可能であり、農薬にしても出来るだけこれを押さえるよう指導したり、協定を結ぶことが必要である。最小限やることはあるし、そこまで考えなければならないということである。これは決してゴルフ場擁護論ではない。白か黒かとか、良いか悪いかと言う問題のたて方だけでは何1つ問題の解決にならないということを意味している。
 その奥に潜む人間としてやむにやまれぬ事情まで考慮しないと、単純な是非論になってしまい、そこから得られるものははっきり言って余り多くない。リゾート開発についてはまだ色々問題があるが、シャープな形で現れているゴルフ場問題を取り上げたまでである。

 過疎と人間

 戦後の地域開発の歴史を道を追ってみると、一言でいって、戦後の国土保全的な地域開発から、太平洋沿岸の重工業ベルト地帯の開発に移り、徐々に公害、過密・過疎などの弊害が出てきて内陸部への開発、しかもできるだけ居住環境を重視したものへと変化してきた。
 最近ではテクノポリスのようにいわゆる「産・学・住」、産業と学問と居住部門を一体として配置し、自然関係とも調和の取れた、つまりある程度人間優先の考え方に変わってきた。これは現実の推移をみると、いくつかの問題点はあるが、大いに良いことだから推進しよう、と筆者はことあるごとにいってきた。
 現実のテクノポリスを見てみると、産・学・が十分に連携できていない。遊びの空間が不十分であり、さながら高度成長を支えた企業戦士の集団である。従来の工業団地の巨大なものにすぎない。悪くいうと、そのような問題点を指摘することもできる。20年30年後成果が出てくるので、そのときまで待たなければならないのかも知れない。
 この地域開発の問題を過疎の問題として捉らえてみよう。過疎について話すと、過疎地域を笑いものにしたり、都会人の気まぐれの関心の対象にすべきでないという感情が必ずある。それをレポートに書いてくれたり、質問を受けたりする。あるいは「過疎とか山間地の振興と言っても、どだいそんなものは都会の人間にはかわらない。本当に理解しようと思うのだったらお前らここに住んでみろ。どんなに不便か、どんなに人間の質が低いか住んで経験してみろ。そして言ってみろ。」という反応が出てくる。それはもっともな言い分ではある。
 ある大学教授は、自ら山間地に別荘をたて、週末をそこで暮しながら、地域おこしに取り組んでいる。では、山間地に住んで、交流をし、それで何か根本的な問題が解決するか。
 結局過疎地の問題と言うのは、過疎を論じるいわゆる都市の人間にはある程度のことは論じることが出来ても、本当に人間の心理面まで含めた、どろどろしたことは理解できないことをよくわきまえるべきである。水洗トイレも何もない、せいぜい合併浄化槽くらいの不便なところで、実際に生活しているその地域の人が最終的に責任をもって、その地域の立て直しをする以外にない。もちろん都市の側が財政的な援助とか、山の中で足りないものを援助してあげるとか、出来ることはある。しかし、所詮そういうものである。
 過疎が生じる原因として述べられてきたことを、筆者は4つか5つにまとめている。人口論的過疎論、これは産業政策論的過疎論、これは要するに産業政策が間違っていたからとするものである。資本蓄積論的過疎論は重工業ベルト地帯の資本蓄積の反対側で起きた貧困化の現代的表現とするものである。最後に人類学的な過疎論があり、そして筆者の過疎地の自動崩壊説。結局、過疎の問題は、高度成長がもたらした高度の資本主義的資本主義が強制した、地域レベルでの親子の所得源の争奪戦の問題だと思う。
 例えば、ある過疎地、どんなところでも良いが、息子さんが2人いて、1人を大学まで、1人を高校までやったとする。その親はその地域で、そこそこの自立的な経営が出来ている農林業をやっているとする。かなり大きな民家で、かなりの山もちである。多少農業もやっている。年収も1,000万あるとする。その場合、自分のかわいい息子をどうしたら良いかという話になると、幸せになってもらいたいと思う。大学をでて、良いところに就職してもらいたいと思う。
 しかし、たとえ親といえども生身の人間である以上、一番深い心理の中で、「俺が食っていくのに精一杯なのだから、息子までは無理だな」という経済的選択が働く。冷たく聞こえるが、「俺が都会へでて、おまえは後を継げ」という話にはならない。たとえそうしても、農林業経営に未熟な若者ではうまくいかない。
 考えすぎかも知れないが、よく山村地域には適切な職場が無いから外へでていかざるを得ないという問題も、内面にはそういう問題が潜んでいる。都会に憧れるから外にでてみたいという話も、裏を返せばいかにその地域の文化水準や、知的水準が低いかという実態がある。先ほどの親にしても、「こんな田舎くさいところで一生を暮らさせるよりも、もっと娘や息子にとって可能性のある都市部へ出させたい」という気持ちはいたいほど分かる。都市部との間に道路や通信網、テレビなどによって風通しが良くなり、都市文化が一挙に流入してくるようになると、この文化格差は拡大して、都市は人々を吸引する巨大な重力源となる。
 だからその土地を離れた人に、その理由をよく聞いてみると、子供の頃からずっと高校までその土地にいて、18年の経験でいかに嫌な思いをしているか。「もうこんな所にはいられない、こんな次元の低い話は嫌だ」という心理が必ず奥底に焼き付いている。それが大学を経由して、外部へ定着させる。
 大学で吸収した学問を虫めがねに、地域を振り返ってみると、そこはもはや人の住むところではなくなる。都会は人の住めるところではないと気づいてUターンしようとしても、よほど適切な職場が無い限り帰れない。まして帰ろうとしても、「都落ち」ということになる。だから県や国の公式的なことをいう人は、今後我県はUターンをする人を促進するためにいろいろな努力をするというが、Uターンできない最大の原因というのは東京である程度働いてしまうと、それを数倍上回るような、都落ちをしてまで帰るようなきっかけ、条件がなければUターンできないはずである。その条件が満たされて、初めてUターンは現実のものとなる。たとえ長男で、地域にかなりの財産があってもそうなのである。地域に豊かな自然と人情と親と財産があっても、都落ちしてまでもというマイナスの心理要因を天秤にかけると、人はどうしても負けてしまうものである。これをどう逆転させるかである。
 だからそれだけの職場を地域にいかに構築できるかがUターン、Jターンを促進できるかという問題を解く鍵になるが、現実はなかなか難しい。だから東京集中が進んでいるし、今後も進むであろう。

 地域と人材

 次に人材の問題を取り上げてみよう。人材をどう育成するかについていろんな所で述べられている。大学を出て企業へ入れば、OJT、OFF JTをはじめ社員研修など、様々な教育を受ける。時にはシンポジウムを聞きにいくということもある。
 (株)メイテックでは、教育のテレラーニングシステムというのもっていて、技術者が五万冊の蔵書の中から何を修得すればよい仕事が出来るのか、各自に最適のメニューにあわせてコンピューターの指示ですぐに本が送られてくる大変素晴らしいシステムを持っている。しかし、人材育成も、人材を育成される側にしてみれば迷惑だということもいえる。企業にあった自己変革を強要されるシステムだからである。人間は、本質的に何にも束縛されず、自由でありたいと願うからである。だから、願わくば、社内教育も他から強制されたものではない、自己啓発であって欲しい。
 メイテックの従業員教育を大学教育と比較できないが、ある意味では大学に欠けているものをもっており、中小企業が見習うべき素晴らしいものをもっていると言える。しかしそこで働かざるを得ない人にとってみれば、企業や自治体に勤めるという問題は、その人のライフスタイルやライフステージの極一部である。「会社にはいること=人生」と考える人はまずいないだろう。
 筆者を始め大学の教師は、人によって違うと思うが24時間のうち半分の12時間ぐらいか、もっとそれ以上を仕事に拘束されている。公務以外に、多くの研究テーマを抱えているからだ。このペースでいくと一生の間仕事で拘束され続ける。それでも苦にならないのは、自分自信を拘束している時間を、ある程度自分でコントロールできるからである。
 それでも、自分が仕事をしているよいうことは、自分の人生の大きなプランの中の極一部だと思う。仕事よりも大切な、人生の究極目標である「心豊かに生きる」という前提を実現する手段が仕事であり、この前提を満たしてくれないとき、かかる仕事は本人にとって敵対する関係にたつ。だから「人材教育とか会社での教育といわれても余計なお世話だ」ということになる。しかしそれをやらないと食っていけないからいやいややるのだと思う。
 では、何が一番満たされるのかということになる。アンケート調査によると2割ぐらいが「仕事一筋」で、残りの八割は他のこと、つまり「余暇」とか、「恋人」のこととか仕事以外のことに意義を見出す若者が増えている。会社への帰属感が薄らいでいるのが現実である。会社ではなく、何かそこと離れたところにある充足感が日々求められている。問題は、「仕事と余暇」、「仕事とそれ以外のこと」、「拘束されている時間と拘束されていない時間」、というわけ方にあるように思える。
 やがて21世紀になり、近い将来物質的にも豊かで、精神的にも豊かで、家族と仲良く友達にも恵まれて、上司にも可愛がられて、健康な豊かな生活を実現させるために、そういう問題のたて方だと、仕事は要するに体をいや応なしに職場へもっていくことであり、余暇生活はそれをいやすものということが続くだけである。いつまでも仕事と余暇、拘束されている時間と拘束されていない時間という状態のままだと、いつまでたっても現状は同じであろう。仕事が遊びであり、遊びが仕事でありという形に出来ないか。仕事を苦痛だと感じるということは一体どういうことであろうか。
 人間は何故に疎外されるのか、対象物から疎外されるのかという問題である。人類社会が発展し、様々な国家形態を経て、資本主義制度、つまり資本主義的生産システムが発達したときに、従来の封建制の自給自足の経済では、土地や生産手段を所有して、自ら働き、自ら耕し、得た収穫物を自分の物に出来るというシステムでは、人間疎外は起こり得ない。もちろん国家からは疎外される。しかし、その生産システムのもとでは労働と余暇は同一概念であったはずである。
 資本主義は、ある資本家が所有し独占している生産手段や資本を土地と有効に結び付けて働かせる階級を社会の中から作り出した。つまり労働者階級を作り出して、それを機械や資本の付属物として扱い定着させるようになったときに人間疎外が始まった。
 では、社会主義になったら人間疎外はなくなるか。ソ連や中国の昨今の状況をみていると、何か人間疎外よりもっと悪い状況にあると言える。それも一重に人間とは何かということを十分考えないで、進んできたからではないかと思う。冒頭に述べた「人による鉄のスクラム」は、かかる状況に対するロシア国民の抵抗ではなかったか。「我々には、人間を考えない主義・主張はいらない」と。
 資本が労働を使う体制、ただ使えばよいというシステムを改めて、生産手段の共有システムへもっていけば、生産手段が全国民の所有物となる。全国民の所有である生産手段や資本によって、自分達が使われるという逆転した現象が現れた。つまり自分達が自分達を使うという関係になるから、哲学でいう人間疎外と言うのは理論的にはなくなるはずなのであるが、人間の問題を軽視したために、結果は理想と大きく食い違うことになった。
 中国の生産現場の国営企業では、国からの補助金で賄っているが、ある工場へ出された補助金が、その工場の極一部の官僚、経営者によってピンはねされているという実態をどう考えるか。そのために生じる生産の非効率、分配の不平等、これが一番大きな問題ではなかろうか。生産と労働の関わりを根本的に考えないからそうなってきているのではないかと思う。
 ある機会に、働く女性の権利をどう守るかとか、女性を家庭の殻に閉じ込めておかないで自由に外へでるようにするための方策を議論した。男女雇用機会均等法を取り上げてみると、求人を出すのに「男子のみ」と書いてはならない、必ず「女性も」と書かねばならない。しかし実際に女性を雇うつもりがないのに、建前だけ女性の採用可と書いておいて、女性が行ってみたら実はそうではなかったというものである。
 女性の社会進出が進んでいるが、基本的には仕事の内容は、専門的な職種を除きお茶汲みかコピー取り、ないしはその延長線上の仕事でしかない。販売業にしても売るための「手足」である。大会社の企画管理部門でバリバリやっている女性もおり、マスコミが取り上げるから大勢いるように見えるけれども、極一部である。大半の職場では女性は、いつかは結婚し退職するので、おいしいお茶が入れられてコピーが取れればまあまあだと位置づけられている。24,5歳になるとまだいるのという無言の圧力でやめていくのが実態である。女性に甘えがあるのも事実である。
 では、女性がお茶を汲むのがよいか悪いかということになると、お茶を入れる自動機械があるから、男がお茶を入れても良いのである。しかし「やはり女性としての立場がありますから」という考えを持つ女性も多い。「ちゃんと事務員として控えているのに、課長さんがわざわざお茶を入れて、お客さんどうぞ、これでは女性の立場がありません」というのである。
 男女雇用機会均等法とか女性の社会進出を建前だけで議論すると、男性と女性との協力関係や女性には女性らしい仕事を、その人がいいというのならどんどんやってもらえば良いという観点がすっぽり抜け落ちてしまう。ここに落し穴があるように思える。その人が本当にお茶汲みが好きで、「立場がありますからやらせて下さい」というならどんどんやってもらえば良い。
 「今日残業頼むよ」と泣いてもらうこともある。家へ帰ったら、家族にご飯を作らなければならないし、夫が待っているかもしれない。しかし、「君頼むよ、明日までになんとかしてこの契約書を作成しないと困るんだ。君しかこのワープロを使えないから頼むよ」というときに、理屈で言えば終了時間が決まっているのだから、「男の勝手」ということになる。しかしそんなものではない。無理を強いても、上司が優しい声を一言かけてあげることで女性は救われるのである。翌日でも、帰るときにでも、「君すまなかったね」と。
 だから、男女雇用機会均等法よりも、上司や職場の同僚の優しい思いやりが、いま求められている。会社の中のシステムが形式的に平等になっていて、育児休暇も育児後の再雇用制度もあり、平等に扱われている、一見平等に見える会社の中で、もし、思いやる心が欠如していたら、それは不平等な扱いをされている状態よりも、もっと悲惨である。女性が泣く泣くやめていくというのはそういう職場であろう。そういう事例は山ほどある。そこまで考えてみないと、人材の問題、職場の中での様々な人間の問題、中小企業の振興の問題だとかいうものは基本的には解けてこない。

 地方公共投資と環境

 次に、公園、道路の生け垣など緑の話をしてみたい。例えば、都市公園を考えてみる。都市公園も近年徐々に潤いのあるものになってきてはいる。しかし、まだまだ旧態依たるものが多い。『森と人間の文化史』(只木良也、NHKブックス、平成2年)によれば、緑、森林あるいは木のことに関して、次のように述べられている。
 「現実問題として、都市緑化に環境耐性の強い木を使うのは当然のことであろう。まず緑にするという大目標があり、緑化を失敗したくないという担当者の立場もあるからである。しかし、強い木一辺倒ではなく、環境警備体制といった意味で、もう少し弱い木の使用があっても良いのではないだろうか。これは樹木を環境指標として、もっと使う、という意味である。むしろ積極的に弱い木を計画的に市街地内に配置し、環境の見張り役、緑の警報器(警報木?)として役立たせては、と思うのである。弱い木が枯れたら植え直す。そして枯れた理由を人々に思い知らせる、といった啓蒙活動も含めて。
 都市公園内で、環境悪化により現実に枯れていく古くからの木があるが、あまり知られていない。枯木は枝が落ちたりして危険であるという保安上の理由で、直ちに処理されてしまうからである。これを安全な範囲で、立ち枯れのまま置いておくことはどうであろうか。『ケヤキ 推定樹齢七五年。○年頃より衰退が目立ち、△年ついに新芽を吹かず』といった墓標を添えて。これも市民に環境悪化の実態を知らせる啓蒙活動で、樹木の環境指標としての使い方の一つだと思うのだが。」
 環境悪化、排気ガスや酸性雨に弱い木を意識的に植えて、そしてそれが弱くなり、枯れるということを環境に対する見張り役として意図的に、枯れても、高くてもいいから、植えるぐらいの先見性が必要だということをこの著者は強くいってる。そして、いよいよ枯れたら、それを墓として、地球上は危ないというシグナルとして使うぐらいの腹のくくり方がないとダメだとこういうことを強くいってる。要は、都市公園一つをとっても、そういう様な発想で迫らないといけない時代になっている。これが都市公園から教えられる例である。
 次に、農業に投入されている公共投資を問題にしたい。専門的には、土地改良事業といい、一般的には、農業基盤投資といわれている。具体的には、農道、排水施設、用水、区画整理、最近では農村公園、集落排水などである。静岡は茶どころだが、遅霜がおりると、お茶が壊滅的な打撃を受けるので、防霜ファンが設置され、遅霜の降りると予想されるときに、スイッチを入れて、霜の降りる空気を排除するようになっている。スプリンクラー(散水施設)もお茶に固有のものだが、遅霜の降りるとき、センサーが自動的にキャッチして、自動的にスプリンクラーで水を茶畑に撒き、凍結による被害を防ぐようにしてある。これも農業基盤公共投資である。これらを土地改良事業と呼んでいるが、それが補助金の対象になっているので、しばしば批判の対象になる。その批判は一部当たってるかもしれないが、「群盲巨象を撫でる」、「木を見て森を見ず」に該当する。全体的に見ると、農業、農地土地改良投資の有用性はやはり大きいといわざるを得ない。
 農業生産基盤投資が、適切に実施された場合には、農業経済のみならず、農業以外の工業、商業を含め地域全般へ、計り知れない影響が及ぶことが分かっている。農業公共投資が行われると、農業生産性が上昇することになる。例えば大規模農道が整備されれば、大量に農産物を運ぶことが可能になり、コストダウンを通じて、農業の生産性が拡大する。そうすると、農業経済はそれ自体で発展をしてくるが、それのみならず、多様な地域経済の網の目の中で、多様な効果が出現する。例えば、就業機会が拡大し、農村地域へハイテク技術をもった工場や事業所の進出が可能になる。
 そこで、農業も含めて農業以外の所得水準が上がり、全般的な消費水準が上がるので、商業へも波及する。このように地域全体の所得水準が上がるので、定住条件が生まれてくることになる。徐々に文化的な施設も建設され、下水道も少しづつ整備され、農村を住みやすい環境にすることも夢ではなくなってくる。
 真夏の大都市で涼を得るとすれば、喫茶店に入るしかないが、そこではクーラーが効きすぎているし、夜はまず冷房をかけないと寝れない。これに対して農村部に少しでも定住の条件が出来て、理想的な住環境や我慢すれば働けるところがあるという状態を作っていく。健全な農業が頑張っていれば、農業振興地域で、開発に対して網をかぶせることが可能となるから農業振興地域だということで、地域の土地利用が、緑が潤い、無秩序なものにならない。もちろん農業振興地域でも、転用の手続きは非常に簡単だから、虫食い的に農地が潰れていることも事実である。しかし、頑張ってる農業地帯があれば、乱開発が出来ないということも事実である。この様に地域の土地利用のあり方を非常にバランスのいいものにしていくということへとつながっていく。
 農業公共投資にしても、以上のような角度で考えなければならず、最近は農村の環境整備が重要になってきている。ただ農道を作り、排水施設や潅漑施設を整備するだけではなく、農村の住環境の整備を進めていく方向が必要とされている。最近は老朽化した木造の小学校を建て替えるとき、地元に木材がたくさんあり、この地域は元々城下町で潤いのある地域だから木造の小学校を作って欲しいというような意見が非常に強く、実現した地域もある。それは鉄筋コンクリートの中で授業を受けるよりも、小学生の立場になってみれば、木の感覚があり、小学校時代の思い出が机に染み込んでいくような、そういう環境で勉強できたら幸せだという願いの表れである。
 しかし、こういう発想で、道路を整備するときに、発想さえあればできるのかというとそれはなかなか難しい。財源がないし、ほとんどの公共投資は補助金が絡んでいるし、国との関係もある。例えば用地を買収すること一つをとってみても、遅々として進まないケースがある。成田空港のように強権を発動し、土地収容ということを本当にやっていいのか、これも問題である。
 では、せっかく整備する公共施設、地域の活性化につなげていくにはどうしてらいいか。これを、十分科学的に解決していかないといけない。公共投資の最適意志決定システムというものが考えられないかというのが問題提起である。公共投資の最適意志決定システム、これを膨大なデータベースと情報ネットワークにより構築できないかということである。例えば工業団地をどこかに作りたいというときに、インターが近くにあり、工業団地を作って地域が潤うような位置に作らなければならない。そういうデータを膨大に蓄積することが、公共投資の意志決定を最適に行うことを可能にするのである。ホストマシンへデータベースとして蓄積され、その蓄積されたデータベースを検索をし、公共投資を実施する場合に、最適な答えを引き出す。
 そのためには、ソフトウエアの開発が必要で、端末で各自治体のパソコンを通じて地域の公共投資、街づくりを実施する際に、このシステムの利用が可能となる。民間企業がある地域へ工場を移転させ、研究開発もやりたいというときにも、膨大なデータベースから科学的にそれを決定しなければならない。
 今のところ、この最適な意志決定をする情報ネットワークはまだ構築されてない。部分的には、観光情報、グルメ情報、防災情報などがあるが、それらを総合的に公共投資という形で、最適の答えを引き出せるような情報システム、ネットワークシステムという様なものはまだ考えられていない。このためには、単にデータベースを構築して、検索するだけではだめで、人工知能(AI)が必要だというのが専門家の見方である。人工知能をプログラムに組み入れ、コンピュータを利用するということで、一つのシミュレーションをできるようなものに、理論的にはできるところまできているのである。コンピュータと人間の頭脳が、補い合いながらやっていく時代が既に来ているということである。そういう手助けを借りながら望ましい街づくりなり都市計画、公共投資というものを考えていく時代に既にさしかかっている。人間の能力にも限界があることを、知っておかねばならない。

 高齢者雇用と地域

 これからの我が国の人口構造が高年齢化の一途をたどることはよく知られている。厚生省の将来推計人口によれば、西暦2007年頃に、0〜14歳と65歳以上の年齢階層の地位が逆転し、全人口に占める65歳以上の高年齢者の割合が1989年の11.6%から、2000年には16.3%と高まり、高年齢化のピークとなる2015年には23%を超えるものと予測されている。まさに4人に1人が高齢者という超高齢化社会を迎えるわけである。
 一方、平均寿命の大幅な伸びは、高齢者の゛老後゛に対する価値観を変化させ、強い就業意欲となって現れている。超高齢化社会の中で高齢にふさわしい仕事をいかに確保するかは、活力ある社会を維持するためにも、避けて通ることのできない課題である。また企業サイドからも、超人手不足状況の中にあって、中高年齢者雇用が大きな人事戦略となっており、いくつかの先進的取り組みの事例も見られる。
 しかし、企業規模別にみると、高年齢者雇用には格差がみられ、55歳以上の高齢者雇用率は、企業規模が大きくなるに従って小さくなっており、高齢者雇用の受け皿は中小零細企業であることが分かる。また業種別にみても、高齢者の雇用率が高いのは、不動産業、建設業、サービス業などとアンバランスな状態にある。さらに年齢別にみると、40歳以下の比較的若い世代に対する有効求人倍率が概ね2を超えているのに対して、50歳以上の高年齢者層に対しては、1を割る求人しかなく、年齢別のミスマッチが明らかである。高齢者雇用に対する社会的要請とその実態とのズレである。
 既に見たように、これからの本格的超高年齢化時代に当たって、このミスマッチを埋める作業は必要不可欠であり、求人・求職双方の側がこの社会的責務を自覚することがまず第一である。
 求職側にあっては、引き続き就業するに当たり、単なる継続的就業にとどまらず、第2の人生設計を踏まえた新しい就業観、技術・知識の修得を心がけ、自ら職業、職種の幅を広げることが必要である。
 求人側にあっては、高齢者に適した職場環境の創造が求められる他、企業自らが、高齢者を単なる人手のみにとどまらず、゛人材゛として活用するよう努力すべきである。また人事政策も、若年、常用、パート、アルバイト、高齢者など多様な労働力源を多様に組み合わせる弾力的対応が望まれる。
 今後、本格的な高齢化社会の中で、健康で働く意欲に満ちた人たちが増大してくることは明らかであり、彼らもまた次第に高学歴で知識階層に属する人たちである。補助的で単純な作業ではもはや彼らの就労の受け皿とはなり得ない傾向が強くなってくるのに伴い、彼らの高度で専門的な知識が充分生かせるような職種と職場環境の醸成に努めることが必要である。
 いずれにしても、高齢者雇用は社会・企業の活力を維持する上での最大の課題であり、官民あげての多様な取り組みが必要である。