第8章 「滅び行く」産業の復権
第1節 企業経営決断のとき
〜株式会社盾科製作所〜
1.会社のあらまし
昭和11年、高級木製品を製造する川野器材工業(株)を東京で創設。20年、長野県佐久市に工場を開設。26年、本社をこの佐久市に移し、蓼科製作所に社名変更。主に家庭用ミシンテーブル、ステレオやテレビのキャビネットを量産していた。その後木製ドア、家具、厨房機器用の木製部材生産などを幅広く手がける住宅関連産業へと転換。資本金
4,500万円。従業員200名。本社、長野県佐久市小田井。
会社経営は社会や経済の変化とともに、そのあり方が変わる。また、そのあり方次第で社会や経済の枠組みを大きく変える原動力ともなる。
長野県佐久市に、住宅関連資材を幅広く手がけるメーカー、蓼科製作所がある。今回は企業にとって、会社の命運をも左右しかねない社運をかけた決断の時とは何なのかを、同社のケースに即して考えてみた。
2.木工会社から住宅関連部材進出へ
蓼科製作所は、現社長(川野通世氏)のおじが日清製粉の粉の木製振い器を作っていたのが、昭和11年に東京で木工会社を興した時に創業を遡る。
20年の終戦に当たる年に長野県に疎開したのが縁で佐久市に工場が出来、26年に本社も移転し、社名も蓼科製作所に変わった。
蓼科製作所になった当初の主な製造品目はステレオ、テレビのキャビネット、それにミシンのテーブルで盛況を極めた。高度成長による所得水準の上昇の恩恵を受けたわけだ。
しかしその後はステレオ、テレビの小型化、ミシンのポータブル化で、大型木材が不要となり、“木の外”に置かれ、途方に暮れたと言われる。
そこで考えた結果が住宅関連部材への進出で、同業種内業態転換であった。住宅といっても、社会や経済の変化がめまぐるしい折、構造が鉄になるか石になるかコンクリートになるか、丸くなるか6角形になるかは分からないが、内側の壁までが鉄板むき出しになることはないだろう。内装や家具はいつまでも木材のままだろうというのが考えた末の結論であった。
そして、内装材や家具も人間の体格が大きくなる一方で家は小型化する。これまでのような単純な木工品や納め具合では駄目で、収納セットやドア、開口部の枠材や窓に目を向けないと、また時代に置いていかれるという発想の転換をしたことが、会社を再び生き返らせる大きな原動力となった。
現在の主な生産品目は以下の通り。
・部屋の開口部の部材、窓枠、化粧枠………50%
・システムキッチンの枠、板のキャビネット………30%
・玄関、室内の収納家具………20%
3.木製防火ドアを開発
この様に同社のこれまでの歴史の中で大きな節目になったのが、単純な木工業から住宅関連部材生産への業態転換であった。苦悩と「決断」と確信があったことは、すでにみた通りだ。
ところで、今同社の目玉商品として脚光を浴びているのが、自主開発した高級木製防火ドアだ。 縁(ふち)に発泡材が組み込まれており、この発泡材は温度が800度くらいになると急膨張し、気密性が高くなるので、火災の際部屋は酸欠状態になって火勢が弱まり、ガスも漏れないというもの。
売り上げはまあまあといわれる。数年前の調査で、マンション等に使われている鉄板ドアの年生産量が80万枚。この市場にまともにいったら勝負にならないので、デパート高島屋にターゲットを絞り、家具に対する高級イメージを逆手にとって販売戦略を展開したという。
「作るのは誰でもできるが、いざ世の中に出すとなるとどこに視点を据えるかがポイントになる。予算がタップリあるところへ照準を絞るのがコツ」と川野社長は語る。
4.経営方針変更決断の意味
実は、この防火ドアには隠し玉があって、ドアと関連して、窓の木製サッシを売り込むためのオトリであるようだ。
同社はすでに単なる木工業を脱皮して、販売戦略を事実上獲得しつつある様だ。住宅の中の一部とはいえ、事実上末端ユーザーにピタリ接近した位置にあり、川下へ走り出たケースと言えよう。大いなる決断は会社を動かし、変化させ、また社会をも動かすということを肝に命じようではないか。
第2節 ハウ・メッセ京都
〜エンドユーザー接近で活路を拓く〜
昨年12月、寒風の吹きすさぶ中、ハウ・メッセ京都、(株)京都すまいづくりセンターを視察してきた。
新幹線京都駅から在来線に乗り換えて次の駅、西大路駅から徒歩10分、約5,000uの敷地に住情報交流拠点「ハウ・メッセ京都」がある。
1.HOPE計画から生まれる
今不況のさなかで、良いのは食品と住宅くらいなものと言われる。そのなかで奇異と受け取られるかも知れないが、業界事情としては、大工・工務店の限界が取り沙汰されている。もちろん業績拡大によって突っ走り、システム化を進めている工務店(地域ビルダー)もあるが、大半は大手ハウスメーカーとの競争の中で、また営業力欠如、大工を中心とする職方不足によって明日が見えない状況だ。
もちろん京都にあっても、組織的な広報活動、建築ローンの設定、増改築フェアなどによってそれなりの対応はしてきた。しかし、こうした対応には自ずと限界があり、何か強力な仕掛が求められていた。
そこへ、昭和58年、建設省住宅局のHOPE計画(地域住宅計画)が登場し、住情報交流拠点建設促進事業が示され、住まいに関する総合ショールームを建設する運びとなったものである。
だが、ここで重要なのは、総合ショールームを建てて客を呼び、仕事を確保するということだけにあるのではない。私たちが学ばなくてはならないのは、公共プロジェクトの助けを借りて(というより京都人はこれを「方便」という)、業界活性化につなげようとする、したたかさと戦略性にある。
2.第3セクターによる業界システム化
複雑な図だが「ハウ・メッセ京都のシステム」を見ると分かるように、ハウ・メッセ京都はまず京都市と地元有力企業が出資した第3セクター(京都すまいづくりセンター)だ。 ここがいわば本部で、運営・企画立案業務をこなす。
消費者との接点がハウ・メッセ京都で、ここにはショールームを備え、専門スタッフ、工務店営業員による相談が受けられ、いざ家を建てるとなると設計・見積りから施工まで、図にみられるように、このシステムに参画した業者によってテキパキと進むことになる。
ハウ・メッセ京都で家を建てる消費者からみても、相手が京都市を筆頭株主とする第3セクターであるだけに安心感がある。係員が驚いていることだが、契約時に値切ることがないという。
ハウ・メッセ京都のシステム
3.「和」から「理」へ
ハウ・メッセ京都の聞き取り調査から、我々は地域住宅生産に携わる、大工・工務店、大手ハウスメーカー、ハウ・メッセ京都の経営戦略上の違いを次頁の図のように理解した。
図の縦軸に経営戦略(発想)の重点の置きどころを「物」に置くか「人」に置くかの違いを示した。横軸は決断の早さ(遅さ)である。
横の軸を境にして上の座標で、論理思考が「理性的」で、対応が「現実的」、下の座標で論理思考が「友好的」、対応が「社交的」と言えるであろう。
さて、一般的に言ってハウスメーカー、場合によっては、拡大路線を行く地域ビルダーは、その経営戦略の論理思考が「理性的」かつ対応が「現実的」である。
一方、大工・工務店は、これまた一般的に言って思考方法が「和をもって尊しとなす」型の「友好派」であり、対応がその限りで「社交的」である。
ハウ・メッセ京都は明らかに思考方法及び対応がハウスメーカーのそれに近いものである。しかしながら、その経営戦略は既存の地域大工・工務店及び地域製材業界等とのネットワークを活かし、なおかつそれを支援する組織である。従って地域木材産業がリーディング・カンパニー的役割を果たすことを目的とし、ハウスメーカーと、住宅生産において競合関係に立つ存在である。
この意味で、地域住宅生産(木材産業)の共同化によるモデルケースと言えよう。
ハウ・メッセ京都の先進性は以上の点に尽きるものではない。京都すまいづくりセンター専務中尾信行氏の言葉を借りると、これまでの地域大工・工務店は、決断力が遅く「人」との友好や和を大事に家づくりに励んできた。 そのこと自体は何も悪いことではなく、それ故にこそ地域の大工・工務店として愛され、信頼されて家づくりを任されてきた。
しかしこの「甘え」が逆に、大手量産ハウスメーカーの進出を許すことになっ たのだという。彼らは現実的で「理」にかなった経営戦略をとるので、大工・工務店など、地域住宅生産の既存のネットワークを支配下に収めながら成長してきたのだとも言う。
ハウ・メッセ京都はこれに積極的に対抗しようとするものだ。平成3年9月オープン以来、新築77戸、増改築80戸という実績がそれを物語っていると言える。
京都の家づくりは京都の業者が何とかしようという地域性、反中央集権の考え方もこれにあずかっているかも知れない。
こうしてみると、蛇足になるかも知れないが、住宅・木材産業だけでなく、とかく持ちつ持たれつの業界依存構造、これが外国からみると不透明な商習慣や流通構造を形づくり、消費者不在と言われ批判されてきたことの元兇であったかも知れない。21世紀に向かって、腰の強い経営体質をつくるためにも、ぜひ業界の意識構造を見直す必要がありそうだ。