1.日本人と切り離せない仏教
われわれ日本人にとって、お釈迦様、釈尊あるいはブッダと言えば、仏教の根本思想を築いた人として、余りりも身近な存在だ。しかしながら、ブッダが開いた「さとり」とは何かについて、答えられる人はそう多くはない。
もちろん、我々の社会生活や、経済の諸々の営みが、今日、仏教の思想のみに依拠して成り立っているわけではないので、こういう問いかけは、ある意味では無意味かも知れない。
しかし、我々が子供の頃に歌った次の歌をもう一度思い出してもらいたい。
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘がなる
お手々つないで皆帰ろ
カラスと一緒に帰りましょう
(中村雨紅「夕焼小焼」)
日本人の価値観として、見事に自然観と生命観それに無常観が現れていることに気づくはずである。
我々日本人は、この無常観に育まれて、今日まで親から子へ子から孫へと、営々と様々な時代を生きてきたのであった。
仏教思想の普及の前衛部隊である寺院が、釈尊の時代のそして鎌倉時代のあの生命力に溢れたものから、いまある意味では「葬式産業」に堕落しているとの批判は手厳しいが、誰も仏教思想の生命観や人生観と全く切り離された存在ではいられないであろう。
2.釈尊の「さとり」
釈尊の本名はゴータマ・シダッタといい、今から約2,500年前のインドは西北部の、1小国の王子として生まれた。
当時のインドは、今もそうだがカースト制度の厳しい社会で、いわば最も恵まれた特権階級に生まれた訳だ。子どもの頃から頭脳明晰で、物思いに耽ける性格があり、少し虚弱な体質であったようだ。プリンスだけに相当かわいがられて育てられたらしく、しかしゴータマの頭にはいつも、生、老、病、死に対する苦悩があり、立派な青年に成長したのちも、片時もその苦悩から逃れることはできなかった。
当時のインドには、バラモンという特権階級があり、火を信仰することによって、様々な難業苦行を体験し、「さとり」を開く出家の集団があった。
ゴータマも、これに従い難行苦行を重ねながら、あらゆる苦悩から解放される(解脱)べく、城を飛び出したのは自然の成行きであった。ゴータマ二十代の後半であったと言われる。
託鉢でなんとか生命を維持し、茨の上に座して断食をし、体に釘を打ちつけては、あらゆる煩悩の源である肉体を痛めつけ、今日では想像を絶する修行がそこにはあった。
余りにも激しい苦行のため、死にいたり肉体が滅びて、初めて「さとり」を開いたと考えられたという、信じられない話も伝わっている。 ところでゴータマは誰にも負けないぐらいの難行苦行を続けたのだが、そのようなやり方では一向に生の苦悩から解放されないことに気づき、ある時菩提樹の木の下で、七日間にわたる瞑想にふけったところ、ふとひらめいたものがあったと言い、これが今日伝えられるところの釈尊の「さとり」である。
3.「さとり」の構図
ではその「さとり」とは何か。
いま私流に解釈し、推測を交えて説明すると次のようになる。
人生や社会の中での様々なあつれきや苦悩は、現実に対する間違った認識(無知)にその根源があり、その無知に基づく考え、従ってまた行動、そして様々な対象との接触、そして突き詰めればそのような人々が折りなす社会構造に深源がある...。
言い替えれば、無知に端を発する認識と行動の総合された社会構造。
7日間、ゴータマの頭の中で、あらゆることの因果関係が、この方程式に沿って、目まぐるしく回転し整理されて行ったに違いない。 すべて解明し終わったとき、「直感」となって、「ああこれだ」という「さとり」となって去来した...。
ならば、この無知に基づく間違った認識を取り除くことが出来れば、人間はあらゆる精神的な苦悩から解放され、正義に立脚した社会が実現できるはずであると。
ゴータマは、深い瞑想から立ち上がり、近くの川のほとりで、村の少女からおかゆを授けられ、この「さとり」の喜びを味わうと共に、生気を取り戻したと伝えられる。
4.万法進みて自己を修証す
ではその「直感」とは何か。
道元が著した『正法眼蔵』の中に次のような一節がある。 「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法進みて自己を修証するはさとりなり。」(岩波文庫『正法眼蔵(1)』54頁) 少々難解だが、この様に考えればいいだろう。
例えば、会社に勤務時間後に急にお客さんがきて、女子事務員が例によってお茶を入れる。商談の関係資料提出などで、やっと解放されたのが午後8時。「おつかれさん」で終わるのが世の習わし。会社ならずとも、どこにでも日常茶飯事にみられる光景だ。
だが、この社員にとって、この日が大事なデートの日だったかも知れないし、家にはお腹をすかして帰りを待っている子供がいるかも知れない。
会社と自己都合との板挟みの中で悩んでいるかくも多くの人たちによって企業(社会)は成り立っている。 この社員に対する本当に人間らしい思いやるがあるならば、「急な仕事で悪かったね。おかげで商談もうまくいったし、社長も喜んでくれるかな。君のおかげだよ。どうも遅くまでお疲れさま。気を付けてお帰り。」と、温かい言葉が出てしかるべき。 暗い帰り路を急ぐ社員ともども、会社の活力が出てこようと言うもの。
「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法進みて自己を修証するはさとりなり。」
不況の昨今、ある日会社へ出てみれば、タイムレコーダーに、今日は押さなくていいから、社長室へ来なさいと、行ってみれば明日から会社へ来なくてもいいと、解雇されたという信じられない話もある。 正しい「さとり」と正しい行為の、最も純粋で、最も体系的なゴータマの教えから現代人が学ぶことは多い。