第2節 日本的経営の原風景 ― 本阿弥一族にみる経営と心 ―

 経営に関しては、様々な経営環境の変化にいかに対処していくかという当面の課題とは別に、その
奥底に潜む精神的な課題、言葉を代えていえば経営思想、ないしは経営哲学が必要である。
  ところで、この経営に関する精神的な課題と言っても、それが直ちに経営環境の改善に結び付くわ
けではないし、またそれがなければ必ず経営が行えないわけではない。さらに、これを求めることは、
意味深くして学びがたい。
 しかしまた、優秀な経営体には、そしてとりわけその経営トップには必ずこの深遠なる経営理念が
確立されているという点で、経営の必須項目である点を見逃してはならない。

 1.時の権力者とも一線を画す

 ここで取り上げたいのは、『本阿弥行状記』によって今に伝えられる、本阿弥一族の経営理念と、
その家訓に潜む人生哲学(社会哲学)である。

〔本阿弥家の概要〕
足利尊氏の頃より刀の目利き、研ぎ、磨きを家業とし、小田信長、徳川家康にも徴用される。
本阿弥妙秀(母 享録2〜元和41529〜1618)
本阿弥光悦(子 永録1〜寛永14 1558〜1637)
    光甫(光悦の孫 慶長6〜天和21601〜1682)
 本阿弥一族は、上に記したように、足利尊氏の頃より刀の目利き、研ぎ、磨きを家業とし、小田信 長、徳川家康にも徴用された家柄であり、京都にあっては、本阿弥の家そのものは、茶屋や後藤それ に角倉と並び称される、京の代表的な町屋であった。  戦乱の世が治まり、徳川幕藩体制のもと、ようやく安定した社会秩序と、農業を中心とした生産力 の発展により、商業の台頭がみられた時代に対応する。  本阿弥光悦は、茶の道に秀で、ほぼ同時代の文人、灰屋紹益によって、千利休亡き後の第一の茶人 と称されるほどの人物であった。  ここまでならば、単なる商家の風流人で終わってしまうのだが、いささか並の経営者と違うのが、 次のようなエピソードだ。  光悦は、根っからの茶人であったから、知人の小袖屋の宗是という者が持っていた、瀬戸肩衝の茶 入れを何としても手にいれたいと思い、自分の家を売り払い、なお借金をして、その付け値である金 30枚を手に入れた。  売り主がまけて進んぜようと言うのを断わり、言い値で買取り、前田の殿様に茶を立てて進んぜた ところ、白銀300枚で譲り渡せとの強い申し出があったが、これを固く断わったという。  母妙秀は、この光悦の振舞いを、茶の道に徹するもの、欲に目が眩んでは道を極めることかなわぬ と、いたく誉めたという。この噂は、徳川家康の耳にも入り、大いに感心したという。  2.奥底に深遠な社会哲学  ところで、光悦の所行に大きな影響を与えたのが、母妙秀の人生(社会)哲学であったように思わ れる。  ある時、妙秀の婿の実家が大火で焼けたのを見て、大いに喜んだというエピソードがある。婿の実 家とは、金貸しで、貧しいものから質にとった品を横流しして不当な利益をあげ、成り上がった商売 屋であったようである。  そのような、あこぎなやり方をしていると、貧乏人の生き血を吸って蓄えた財が、いずれ災いの元 になり、不幸に落ちるであろうと、常日頃から考えていた。火の手が、その倉に燃え移ったと聞いて、 手を叩いて喜んだというのである。  妙秀は、晩年、一族からの付け届け物はことごとく貧しいものに振舞い、90歳でこの世を去ったと きに、身の回りには、唐島の単物1つ、かたびらの袷2つ、浴依、木綿の布団、布の枕しかなかったと いう。  妙秀は、この世のなかで真に必要なものが、人間の他を思いやる温かい心であり、それに徹すべき であるという、徹底して考察された社会哲学があったと言えよう。金持ちに対しては、まずその人間 性を疑ってかかれと、常々手代の者に聞かせていたという。  光悦に、晩年、40年の長きにわたってつき合ってきた、茶の湯仲間の富裕な商人についての次のよ うな所行に関するエピソードがある。  ある大晦日の晩、その友人の家を訪れたが、門から庭の中まで、おびただしい人がざわめいている。 聞くところによれば、1年間の仕入や従業員への支払を、こうして一度に集めて行えば、せっぱ詰まっ ているので、少々受取が少なくても諦めて帰るからだという。  「これでは、真面目な人たちが、正月を迎えられないではないか」と激怒して帰り、愛想をつかし、 以後その家に近づくことも、合うことも、手紙を受け取っても読むこともなかったという。そして、 風流人を装ってそのような間違った経営をしていたことを、四十年も見抜けなかった自分の愚かさを、 家族や手代の者の前で恥じたという。  3.優れた精神は優れた経営を生む  この様に、精神面での優れた心構えが、本阿弥家をして、日本一と言われる刀剣の商家としての地 位を築かしめたのであった。  光悦の孫に当たる光甫(こうほ)もまた、江戸の松平安芸守から、錆びた刀を金二両で引き取って 欲しいという依頼があったとき、家訓を忠実に実行した。  手に取ってよく見ると、その刀は錆びてはいるが正真証明の名刀正宗であり、そのことを正直に申 し上げ、京に持ち帰ってきれいに磨きあげて正式に鑑定をし、正宗の銘を刻み、半金250枚の鑑定書 をつけて差し上げたのであった。松平が喜んだのは言うまでもない。 刀剣に関する技術に対する誰にも負けないという自負心はまた、以上のような本阿弥家に一貫して 流れる、深遠な社会哲学に由来するものであろう。  長かった不況も、ここへ来て一部にようやく明るさが見えてきた。これからまた、忙しいビジネス の時代がやって来る。今はもう殆ど聞かれることもなくなった、過去の経営者の優れた営みを、もう 一度噛みしめてみる必要がありそうだ。