第3節 石田梅岩(石門心学)と現代 1.石田梅岩から何を引き出すか 本誌読者の中に、江戸時代の初期の経営哲学者、石田梅岩の名を知る人も少なくないであろう。第 八代将軍徳川吉宗の治下、新井白石の享保の改革(緊縮政策)の吹き荒れる中、商人道の正当性と、 寄って立つ理論的基礎の確立に貢献した、京都は呉服屋の出身で、後世に知られる石門心学の創始者、 石田梅岩。 18世紀末、アメリカの資本家ベンジャミン・フランクリンとも並び称され、また石田梅岩から遅れ ること約50年、「諸国民の富」を著して有名なアダムスミスとの共通性も指摘される、日本的経営の 創始者といわれる石田梅岩である。 政治の世界を眺めても、相次ぐ新党結成と内部分裂、そして政治的枠組みの再編成に見られるよう に、今後の経済社会の変化が見通し難く、何をなすべきかを常に問い続けなければならない経営者や ビジネスマンに取って、時代を越えた経営学の普遍性を学ぶことは有意義だろう。 いまどんな職場にも、新しい人材を迎え、新旧入れ乱れての経営体の新しい模索が始まっているは ずである。経営体はいま古い殻を脱ぎ捨て、不況後の新しい経営環境にソフトランディングしなけれ ばならないという大きな曲がり角に立っているのである。 いま石田梅岩の著書「都(とひ)問答」を専門的な角度から解説した『清廉の経営』(由比常彦、 日本経済新聞社、1993年)を詠み、彼の経営哲学、否、社会哲学を味わいながら、じっくり考えてみ たいと思う。 2.日本的経営の原型 ところで梅岩の「都J問答」には、いま現代に必要とされ、しかも新しい経営環境に自らを適応さ せる「経営戦略」らしきものは見あたらず、ただひたすらに「正しい商人道の心得」が説かれるので ある。 もちろん、「都J問答」は梅岩が京都の呉服屋を四十歳頃でリタイアした後、本格的に商工業者な どのビジネスマンに取っての啓蒙・普及活動に乗り出してからの著作であるので、そのような形を取 らず、ただひたすらに基本を説いたのかも知れない。 「都J問答」には以下のようなくだりがある。 ある2人の呉服商人が、その御用達先の武家屋敷に呼ばれ、納入している商品の価格に付いて、賄 い方から不当に価格が高いのではないかと詰問されるのである。というのは、この呉服商人と武家屋 敷との取引は親の代からの長きにわたり、近く他の呉服商人がこれよりも安値での取引を申し出てい るために、再吟味となり価格の妥当性を問いただしたのであった。 一方の呉服商人は、「誰でも商人は最初は取引を始めるために安値で申し出るもので、そのような 安値は長続きはしないでしょう」とし、自らの価格を妥当とした。これに対し、もう一方の呉服商人 は、「私の父がお殿様と取引を頂きまして、昨年父が急逝し、私が引続き商いをさせて頂いておりま すが、私の不行届きから多額の借金を抱え、ついつい高価な値を付けておりました。他の商人の値が その証拠でございます。これではお殿様への御恩が成り立ちません。これからは商いを返上し、いま しばらくは頂いた収入で商売を立て直し、その後にまたお仕事を頂きたく存じます。」と、価格の不 当に高かったことを認めたのであった。 賄い方はこの言い分を十分検討し、前者の商人は不正直であり、後者の商人は、不当に高価な値で の納品を非としながらも、正直であり、今後当家にとっても必要な商人であるとして、借金返済のた めの資金を融通した上で、取引の継続を認めたというのであった。 武士道と商人道は、人の行いのありようとしては、身分制度の元でも何等変わりのないことを主張し たのであった。 3.「市民社会」の論理 それはともあれ、石田梅岩は、この様な商工業者、ビジネスマンの、経済活動の担い手としての心 の持ち方の正しさを執ように強調するのである。「経営のありようの正しければ、自ずから経営体は 発展する。正しい行いなくして、正しい経営戦略なし」といわんばかりである。 しかし梅岩は単なる宗教家、あるいは儒教の信奉者としての立場からのみ、この様な経営の精神論 を説いたのではなかった。農業生産力の発展と並行して、商品・貨幣経済が著しく進展し、前期資本 主義(重商主義)が発展する中で、飛躍的に商業資本の致富の機会が、従ってまた資本の蓄積が図ら れつつあるこの時代にあっても、未だ商業の地位は低く、また悪徳商人の存在によって、その社会的 地位の確立はなされない状況にあったのである。 そのような中で、商業のモラルを確立し、そのあるべきステータスを確立することは、やがて経済 活動の全面的な開化を経て、明治維新によって「近代的」な市民政府を生み出す歴史の必然性であっ たとは言えまいか。 梅岩はこのような時代的制約の中で、ゴーイングコンサーンとしての経営体の存続(「のれん」の 必要性)、経営体の労使の一体性、従業員教育や後継者の確保の必要性とその実践方法を、自らの多 年にわたるビジネスマンとしての経験と勘に基づいて展開したのであった。 4.天と一体になる経営理論 梅岩は、1685(貞享2)年、京都から西へ約20キロ、亀岡から南に10キロほどの丹波の国桑田郡東 懸(とうげ)村(現在は亀岡市東別院町)の農家の次男坊として生まれた。幼い頃に京都へ丁稚奉公 に出、長い呉服商としての経験の後、40代半ばで独立、上にみたようにビジネスマンの啓蒙普及と、 商工業者の地位改善のために半生をかけたのであった。 儒教など各種学問に通じ、社会システムに関する分析力と洞察力には、天才的なものがあったよう に思われる。のみならず、彼は京都の禅寺での修業を経て人の道の究極の構造と悟りを得、ビジネス 社会を自ら浄化し、発展させようとしたのであった。 「都J問答」の冒頭に、これは中国の文献からの引用と思われるが、次のようなくだりがあること がそれを証明している。 「大いなるかな乾元(けんげん)万物資(と)りて始じむ。乃わち天を統(す)ぶ。雲行き雨施し て品物形を流(し)き、乾道変化して各(おのおの)性命を正す也。天の与ふる楽しみは、実(げ) に面白きありさま哉。何を以つてかこれに加へん。」 元録から天保へ、換言すればバブルから一転反動不況へ、そして緊縮政策へという先行き予測の出 来ない経済・社会環境の激変期に、(経済)人の心の究極のありようを見つめ、豊かな想像力と発想 によって、新しい商工業中心の時代へと導いて行った梅岩の思想と実践。経営幹部から新入社員まで、 もう一度じっくりと味わってみる必要があるのではないだろうか。
