第6章 街づくりと地域産業


町づくり産業のイメージ図

 第1節 「まちづくり」とは何か
 まちづくりとは何かに関しては、「地域内にある土地、金、物、そして人や知恵を活かし、組み合せながら長い目でみて、暮しやすい、住みやすい場をつくること」(1)、また別の定義では、「住民が主体となって自分たちの地域の住環境を改善していく運動」(2)と言われる。もっと分かりやすく言えば、「快適な居住空間を維持し、または改善ないしは整備する取り組み」と言うことが出来るであろう。
 しかし、「まちづくり」ないしは「むらづくり」という用語の使用には、若干曖昧な点があるように思われる。「○○○を活かしたまちづくり」とか、「日本一の○○○まちづくり」などという言い方がなされ、また観光地経営やイベント、ふるさと産業おこし、地域活性化といった、直接住環境に関連しない分野でも、「まちづくり」という言い方がなされている(3)こと、また近年の工業団地(例えばテクノポリス)づくりの場合には、そこに生産関連施設のみならず、商業空間や、住空間、コミュニティー施設などを伴うところから、「まちづくり」という表現がなされている。
 また、別の角度からみると、一定の地域に都市計画道路を整備する場合、それは生活基盤整備であり、従って「まちづくり」事業であるが、都市計画道路は産業基盤でもあり、生活空間の角度から定義した、上のような定義からは、若干はみ出るかも知れない。下水道についても同じことが言えよう。下水道は生活排水の処理のみならず、産業系排水にも利用されている。
 このことは、まちづくりに関する捉え方が、徐々に多様化し、その中心になるファクターもまた、多様化・複雑化してきたことを物語っているといえよう。
 この様に「まちづくり」とは、地域住民の快適な居住空間の形成ということを中心にしながら、これに関連する産業振興や文化的な取り組み、さらには自然環境の保全といった、もう少し緩やかで幅の広い枠組みを設定した方がよいのではないか。その意味では、これからのまちづくりには、従来にもまして様々な角度からの総合的な検討が必要であるといえる。
 本稿では、「まちづくり」についてこのような位置づけを与えつつ、以下様々な角度から、「まちづくり」に求められる視点を提示したい。

 第2節 まちづくりと地域・地方自治

 まちづくりが基本的には、「地域の快適な居住空間を維持ないし創出する行為」である以上、そこに地域住民の創意や工夫、また夢や長期的な展望といったものが、活かされていることが、必要不可欠の条件であることは、言うまでもないことである。
 また、ニュータウンの建設のように、その設置主体が、公団など国の機関であったり、外部資本であるような場合でも、できるだけ、地域や住民の意志を反映したものであることが望ましいし、高速道路建設にともなう移転や区画整理事業等によるまちづくりの場合にも、地域の意志を尊重する方向になってきていることは事実である。
 最近では、まちづくり条例や、景観・環境保護条例、あるいは水道水源保護条例など、地域の独自の条例制定権を駆使した、独自の対応も見られるところである。要するに、まちづくりを展開させるためには、そのための意志決定や、計画決定、また様々な権限が地域に委譲され、必要な情報が地域住民に対して開示されており、なおかつ、住民参加の手法が確立されていることが望ましいわけであり、行政システムとして考察すると、「地方自治」(地方分権)(4)が、どれだけ地域の側に担保されているかが、きわめて重要な要件になってこよう。
 まちづくりは、多くの場合地方公共事業として展開されるが、その場合には、権限や運用のみならず、地方自主財源の確保が重要である。より端的に言えば、国に有利な税源配分と、財政調整制度、補助金、起債許可制をセットとした、集権型システムを分権型システムへと改める必要性が出て来る。(5)
 静岡県では、現在5大市(浜松、静岡、清水、富士、沼津)以外では、土木事務所や本庁で行っている、建築基準法の建築確認や都市計画法の開発行為の許認可を、人口10万人以上の藤枝、焼津、富士宮、三島の4市に権限委譲する方向で検討を進めている(6)が、こうした分権化が必要である。
 地域を熟知した地域自治体に権限が委譲されることは、地域の指導要綱に即した指導行政が可能であるし、地域住民のまちづくりの自主的な取り組みと合わせて、所期の目的が達成されると言えよう。まちづくりには地方分権が必要不可欠であり、地方分権を進める起爆剤となろう。

 第3節 まちづくりと産業(商業)振興

 上に見たように、まちづくりには、産業振興の視点が欠かせないことも、また言うまでもないことである。製造業の振興のためにも、浜松地域での取り組みの進展にも見られるように、単なる製造拠点の空間から脱皮して、音楽(音楽公園)や文化性を取り入れたまちづくり(アクトシティー)を進めることは、今後の製造業のあり方から言っても望ましいことである。まちづくりは、製造業の振興という視点からも検討されなければならない。その際、道路や新交通システムを中心とした交通体系など、ハードの重要性もさることながら、そこで運営されるソフトなシステムとその掘り下げが重要である。
 快適な居住空間の形成のためには、商業空間(商店街)の整備が必要不可欠であり、まちづくりと言う場合、商店街整備(振興)がよく引き合いに出されるところである。地域小売商業を取り巻く環境が厳しい中、どの様な対応を試みるかは、単なる商業対策としてだけではなく、まちづくりという広い角度からの検討が必要である。
 ここで、やや長くなるが、筆者が最近見た商店街(街)の魅力を検討することによって、まちづくりとしての商業空間整備の若干の課題を抽出したい。

 1.社会の縮図・未来図としての街

 今から24年前、大学院に入学する直前に、筆者は、東京は原宿に本社がある、呉服関係の会社に勤務していたが、入社後間もない頃、本社が世田谷区の環状七号線沿線へ移転したので、わずか半年間の原宿勤務であったが、当時を思いだしてみると、今の原宿、竹下通りの賑わいぶりには隔絶の感がある。当時は閑散として、どちらかと言えば、うらぶれた感じの街で、余り人の寄り付かない街であったように記憶している。 この原宿を24年ぶりに、1995年秋、再び訪ねた。
 日曜日の原宿に降り立ち、筆者はこの変貌ぶりに、夢ではないかと目を疑ったほどである。駅前の交差点を渡ると、すぐに「竹下通り」へ。処狭しと立ち並ぶ、ヤング向けの店舗に蟻のように(!?)群がる群衆が、現に目の前にいる。その「蟻の行列」の中に入ると、年の頃は、12-3から20代が圧倒的に多い。
 もっと詳細な検討が必要だが、筆者はこの街が人を引き付ける条件は、以下のように要約できると考える。
 
 @既成の新宿などデパート型街並みと違い、若者にターゲットを絞ったこと(「街づくりの革新性効果」)。
 A山田邦子、ネルトンなど、テレビを中心としたマスメディアに登場する、タレントのキャラクターを配置したこと(「キャラクター性の効果」)。
 B総延長200メートル足らずの狭い空間に、商業施設を詰め込み、「割って入りたい」という心理をかき立てること(「雑踏性の効果」)。
 C思い思いの服装、髪型、アクセサリーのファッションが、10人いや1,000人皆違い、相互に学習し合うことで、新たなニーズを生み出すこと(「ファッションの学習によるニーズ創出効果」)。
 D似通った年代の者がここに集まることで、価値観や感情を共有できるという同質性。(「群衆効果」)
 E社会のあらゆる苦悩から解放されるという、束の間の安心感が得られること。(「自己解放効果」)。

 ストレスの多い大都市で、このように自然発生的に、街並みが形成され、いわば「不安定な安定装置」を作り上げていることは、一極集中の弊害が指摘されながらも、なお人口吸引力を失わない都市の力(磁場)を解明できるのではないか。大都市に住む人たちの、そしてまた人類の見えざる防衛本能、あるいは知恵の現れとは言えまいか。
 しかし、このような街並みが形成されたのには、もっと根源的で、かつ社会的な背景があるように思える。ここに集まっている若者たちを見ていると、幼い頃からの習い事、学習塾、偏差値教育、受験勉強、会社への就職戦線、入社後の人間関係に身心をすり減らし、大人の論理でつくられた社会に、無言の抵抗をしているようにさえ見える。
 街は、様々な価値観を持つ、不特定多数の人たちの受け皿であり、社会システムとして位置づけられる必要があろう。同時に、これからの社会を創造的に発展させる仕組み(装置)でなければならないとも思われる。その意味で、まちづくりは、発展する社会の未来図として描かれなくてはならない。他地域の模倣を避け、そこに集まって来る人たちの真の欲求に応える、個性的にして人間的なまちづくりを心がける必要がある。
 後の箇所で、静岡の大道芸による国際的なまちづくりを検討するが、そこでの手法や目指すべきものも、このような新しい挑戦である点で大いに評価されるべきである。

 2.大阪・道頓堀周辺に見る街の魅力

 人が集まる街には、いくつかの必要不可欠で、かつ共通の条件がある、というのが筆者の持論で、それは、サプライサイドではなく、ユーザー(市民)サイドに求められなければならない。
 ゴールデンウィーク、大阪は難波、道頓堀かいわい。新幹線、新大阪から地下鉄御堂筋線で難波の駅に降り立てば、地下には94年4月にオープンしたばかりの、地下街「虹のまち」が広がる。まだ昼前というのに、人でごった返し、熱気に包まれている。地上の戎(えびす)橋筋商店街へ出れば、そこは若い人たちの楽園。戎橋にたたずめば、何年か前だが、阪神タイガースが、セリーグのペナントを制し優勝したときに、熱狂し歓喜したファンが、次々と道頓堀に飛び込んだテレビの報道を思い出す。
 戎橋から北に進むと、心斎橋筋商店街。商店街から左右に分かれた路地には、無数の飲食店が建ち並ぶ。東へ回って、道頓堀へ戻れば、太左衛門橋。名物のたこ焼きを、ある人は立ち、ある人はしゃがんで、美味しそうに食べている。外人さんのフォークソングのパーフォーマンスも。不思議と「絵」になっている。
 少し南へ回ると、そこは有名な「月の法善寺横丁」。道幅2メートル、奥行き50メートルほどの小さな横丁だが、ここは夜にならないと、人が集まらない。しかし、水掛け不動さんでは、列をつくってお参りの人。「くいだおれ」は、この横丁の入口のところにある。千日前商店街を南に進めば、そこは吉本興業の本拠地「難波花月」だ。大学を卒業したばかりの頃に、友人と観劇に来たことを思い出す。確か、岡八郎や原哲夫などが出演していた。
 もう一度道頓堀へ引きかえし、西へ進めば「アメリカ村」。アメリカン・グッズを扱った商店が目につく。気のせいか、ここに集う人たちのファッションは、何故かアメリカ風。初夏の太陽がまぶしい。 ここまでくると、そろそろ道頓堀かいわいは、日も傾き「大阪ラプソディー」の世界へ。繁華街は夜の世界へ変身を遂げる。参考までに「大阪ラプソディ」は、タレントの・・・が若い頃お姉さんの海原お浜と、海原こ浜という芸名で、姉妹漫才をやっていたときに歌った歌謡曲だ。今も、カラオケの定番商品だ。
 なぜ、道頓堀かいわいは、かくも賑わうのだろうか。それは、自由であり、人々を日常の苦悩から開放してくれ、感動があり、夢があり、生きる希望を見つけることが出来るからだ。自由と夢空間―それがこの街の本質と言えよう。
 まちづくりには様々な手法やコンセプトがあるが、この本質を見失しなうと、そこには、非人間的で無機質な構築物だけが残ることを肝に銘じ、取り組みを期待したい。

 第4節 まちづくりと文化・スポーツ振興

 都市には、産業、情報、消費、生活、環境保全、娯楽、交通など様々な機能の他に、文化・スポーツ振興機能が重要なファクターとして整備されていなければならない。音楽、美術、芸術、芸能などの文化活動、近年のサッカーや、様々なスポーツ活動の振興が、まちづくりの重要な要因として検討されなければならない。静岡県清水市では、Jリーグの強豪、清水エスパルスを中心として、層の厚い市民サッカーを活かした街づくりが行われている。
 「文化」と「スポーツ」を同一の次元で論ずるのは短絡だが、プロ、アマを問わず、両者いずれも人間の精神や生身(五感)の活動による、情報発信活動であるという点においては、共通していると言えるであろう。文化活動が盛んであるということは、演じる側、鑑賞する側一体となって、高度な精神活動や、感動を享受する受け皿があるということを意味し、そのための基盤整備は、快適な居住空間を形成するためにも、今後ますます重要となって来る。
 これまで、文化施設に関しては、ハード優先、多目的ホールの画一性が指摘されてきたが、今後は専用ホール、専用スタジアムの方向で、しかも、運営ソフトの充実が期待されよう(7)。人口6,000人弱の地域が、従来からの文化ホールに加えて、独自の設計による美術館を建設したケースもあり、これら文化・スポーツ施設を核にした、新しい発想のまちづくりも生まれてこよう。
 雇用の機会が充実し、ある程度の所得水準が実現され、産業基盤と共に生活基盤整備が進められると、一体としての空間的な美しさが追求されるようになると考えられ、これらの施設配置や周辺の環境整備はきわめて重要な課題になってこよう。

 第5節 まちづくりと環境保全

 まちづくりには、新しく住環境を整備するのみならず、積極的に自然環境やまちなみを保全するという、重要な使命があるように思われる。(8)また、歴史的な文化遺産に注目し、積極的にまちづくりの中に、これを復元するという試みも盛んになってきたように思われる。
 湯布院のまちづくり条例のように、地域が一体となって、過度の開発から、温泉観光地にふさわしい景観をまもるという試みは、バブルが崩壊し、かつてのようなリゾート開発志向は弱まっているものの、今後長期的には、環境、景観、水源の保全など、地域における快適な住環境を維持する上で、きわめて重要なまちづくりの課題となろう。
 筆者の経験では、この様な環境保全の分野ほど、自然科学を駆使した、総合的な科学力が試されるものはないと考える。気象、土地、河川、水質、植(動)物などに及ぼす影響は、実験によるデータの蓄積が不可欠であり、この様な作業は、地域での経験や勘に頼ることもさることながら、自然科学分野からの援助を必要としている。(9)まちづくりのあり方に大きな影響力を及ぼす国土利用計画も、この様な科学的な作業を通じて、初めて有効性が発揮できるものと確信する。
 このこととも関連するが、まちづくりを進める場合には、都市計画や建築に関わる狭い分野ではなく、できるだけ幅広い専門的知識や、経験に基づく、「学際的」な検討が必要である。まちづくりということがブームになって久しいが、今後は「まちづくり政策科学」というべきものが必要になるかも知れない。


(残したい景観ベスト、「松江城の内堀」。最近この内堀を観光用の船が遊覧している。)

 第6節 まちづくりと公共事業

 1.歪んだ社会構造と公共工事汚職

 日本の政府支出の中で、公共投資の比重が大きい事はよく知られている。公共事業つまり社会資本整備が、他の先進諸国と比べて立ち遅れていることは、日本の経済と政府の関係の特殊性を理解する上で、極めて重要であるが、このことは一般には余り知られていない。
 年度末の何かと忙しい時期に車で道路を走れば、どこかの街で必ずといっていいくらい、道路を掘り返し工事をしているので、立ち往生をしたり、予期しない通行止めに、いらいらした経験を持つ読者は多いことだろう。
 午前中通れたはずの道路が、夕方突然工事中となったり、工事をしている様子もないのに、工事中の標識が置いてあり、片側通行になっていたりと、恨みつらみには事欠かない。 下水道とガス管の担当が違うため、一端埋めたガス管の位置と同じ箇所を、また掘り返して下水管を埋めているといった、愚にもつかない話もある。
 だが、諸外国と比べて社会資本、特に生活関連社会資本の整備が遅れている日本では、公共工事が必要不可欠であり、早急な整備促進が必要なことは言うまでもない。
 公共事業の入札に関わる一連の、談合や贈収賄事件にみられるように、公共事業は、政・官・業を含んだ、わが国の構造的な政治・経済の腐敗した構造の典型であり、国民の政治離れを引き起こしている元凶である。それは、人類が長い歴史の中で、血で血を争う闘争を経て築き上げてきた、現代民主主義政治や公正な経済社会構造の、もっともはずべきガンであり、何としても解決しなければならない国民的な課題である。

 2.不祥事のバックグラウンド

 では、こうした事件が、いっこうに収束へ向かわないのは何故だろうか。筆者はこの現象は、わが国の近代社会成立以前から連綿と続いている、一種独特の「持たれ合い構造」であると考えており、この図式の改革なくしては、事件の再発は不可能であると確信している。
 これは、公共事業を請け負う土木・建設業界のみならず、多かれ少なかれ、このような図式の中に組み込まれている、わが国の産業界への警鐘と受けとめなければならない。
 もちろん、こうした事件が表面化し、大きな社会問題となっているのは、一部の大手建設業、いわゆる大手ゼネコンや一部の業者であり、金のかかる選挙制度と悪徳政治家であることも事実だ。
 従って、当面、大型公共工事に限定して、一般競争入札制度が試験的に導入されたのであった。静岡県にあっても、いくつかの自治体で、同制度が導入され、数億円以上の公共事業の入札に、平成6年度から、すでに制限付き一般競争入札制度が導入された。こうして、徐々に仕組みは改善されてきている。
 他の地域では、導入されたとたんに談合情報が寄せられ、本命建設業者が最低価格で入札をものにし、調査の結果、灰色のまま契約へ進んだという、信じられない話も伝えられている。実際に、落札予定価格は漏れているという話を、自治体関係者からも聞く事がある。
 確かに、公共事業は建設業者からみれば、儲けは少ないかも知れないが、一般経済界が不況の折り、ケインズ流の景気浮揚策が行われるので、多少の赤字は覚悟でも、従業員を食わせるための受注確保は有り難い、という声をよく聞く。
 また、過度の競争によって、著しく予定価格を下回る落札をするよりも、一定の高値を維持して利益の配分をし、政治献金として還元した方が、業界全体の維持につながるといった配慮も働くであろう。
 今日ほど経済力が東京など特定の大都市に集中し、これといって牽引車となる産業を持たない地域にあっては、建設業が地域の雇用を支える、重要な産業であることも否めない事実である。

 3.納税者の利益を損ねる入札制度

 こうした事情ないしは構造が、あいも変わらぬ一連の不祥事を引き起こす、バックグラウンドにあるのだ。しかし、こうした構造にピリオドを打たなければならないことは、もはや誰の目にも明かである。 高い入札価格、政治献金、技術革新の停滞など、こうした構造がもたらす社会的なロスは、納税者の論理と真っ向から対立するからだ。
 先進国並の租税負担率に達し、今後の高齢化社会の中で、いやがおうでも消費税を中心とした、税負担の高原水準を覚悟しなければならない国民にとって、これが悪徳業者と腐敗した政治家の懐の中へ消えていく事を、もはや我慢できないからである。
 豊かな生活大国を築くためには、質の高い公共事業はあくまでも必要であり、生活優先の公共投資を進めて行かなければならない。今一度、この使命をかみしめ、政・官・業とも、自らの衿をただすことがなければ、今次入札制度の改革も効力を発揮し得ないであろう。
 また国民も、対岸の火事のごとく事態を傍観せずに、公共工事の適正な企画立案と執行に、監視の目を光らせるべきだ。まちづくりが進展し、今後も新しい発想によるまちづくりが、全国で試みられていくことはまちがいない。このような長期的な展望の中で、公正で住民参加を真に実現するするまちづくりのためには、公共投資の執行過程にある、以上のようなハードルを越えることが切に求められている。


 第7節 たのしい「まちづくり」

1.静岡市のまちづくりの試み、「大道芸」

 「まちづくり」という言葉の中には、いろいろな意味が含まれている。生活環境や居住空間の快適性の向上であったり、商業や産業の振興、それに伴う経済的な発展などなど...。バブル経済がその姿を現した頃からは、地方博に代表されるイベントが花盛りだったし、現在でも、イベントをまちづくりの重要な要素にしようと頑張っている自治体も少なくない。
 92年から、毎年秋に静岡市で行われている「大道芸ワールドカップイン静岡」(以下、大道芸WCと略す)も、その一端として位置づけられる。大道芸WCの開催目的は、@各ジャンルの国際的なアーティストを一堂に集め、A街の活性化を目的とした、地域イベントにとどめることなく、国際化推進の役割を果たすイベントとして定着させていくことだ。
 実際に「大道芸WC」が、静岡市に与えるインパクトは大きい。大会開催中、会場となった中心商店街の人出は、開催前の同時期に比べ20〜50%も増加している。公共交通機関の乗降客も、同様に伸びている。商店街における衣料品などの販売は、景気の悪さも手伝ってか、目だった伸びはないようだが、期間中の飲食店の込みようは相当なものである。大会終日に、メイン会場である駿府公園を歩いてみた私は、あまりの人いきれに気分を悪くしてしまったほどだ。結局、92年には111万人(開催4日間)、93年には169万人(同5日間)(10)を集める大イベントとなった。

 2.ポジティブでコミカルな市民の誕生

  しかし、大道芸WCの思わぬプレゼントは他にもある。積極的な市民参加が図られたことにより、大道芸のファン層を広げたばかりか、現在では運営の一部分を、市民ボランティアの企画により行っている。そもそも大道芸WCの実行委員会は、市民により組織されており、大会全体の企画運営に当たっているが、その活動を支える市民ボランティア層が、回を重ねる毎に充実しているのだ。
 その原動力の一つとして、「静岡大道芸カレッジ」の開催がある。これは、市民クラウン(道化師、CLOWN)を育て、大会期間中の会場の盛り上げに、一役買ってもらおうと企画された。クラウンの基本は、「人々に惜しみない愛情を捧げること」だ。『ALL FOR YOU, IT'S MY PLEASURE!』が、合い言葉である。日本で道化師というと、白塗りの化粧に哀愁を帯びたマイムがお決まりだが、欧米のクラウンは陽気で明るい。決して物事に対して否定的・悲観的な態度はとらずに、いつも、ポジティブにコミカルに対応していく。元気のかたまりである。
 現在は1期生・2期生合わせて、約80人の市民クラウンが誕生しており、今後も増えて行くだろう。ひとつのまちに80人もの元気で明るいホストがいるなんて、本当にすてきなことだと思う。この市民クラウンの存在は、静岡市の大きな財産である。私は、このクラウンのコンセプトは、これからの、まちづくりのキーワードになるのではないかと思っている。まちづくりにおける「こころ」の豊かさとは、そういうことだ。

 3.イベントの落とし穴

 イ)「イベント屋さん」に陥るとき

 イベントに携わっていると、「私も○○町で市民にイベントを仕掛けているんですが、どうも乗りが悪くて・・・」と、ぼやく人に合うことがある。静岡県民の2人に1人は、何らかのボランティア活動を行っている。つまり、日常生活をはじめ、地球の裏側で起こる様々な問題や出来事に関する関心が高く、より良くしていこうという気持ちが強い。そういった意識が高まる中で、「仕掛ける」主催者と、「仕掛けられる」市民の良好な構図が成り立つだろうか。多数の住民にきてもらいたい、参加してもらいたいイベントを企画するときに、「仕掛ける」発想が少しでも見えてしまったら、「仕掛けられる」側はたちまち興ざめすることは目に見えている。
 自治体が主催するイベントとして、ワークショップのような、一から十まで住民参加で進めていくイベントが万能だとも思われない。それぞれの事業の性質があるからだ。しかし、自治体が主催であるにもかかわらず、「業界」と言われるようなイベント屋さんの発想に陥ってしまうことは、悪女の深情けみたいでたちが悪い。自分がそこの住民だとしたら、そんな自己満足的なイベントに足を運びたくないと思う。主催者もその場で一緒に踊ってくれるような、ほのぼのとしたイベントだったら、きっと行きたくなるだろう。
 
 ロ)イベントの魔性にはまるとき

 イベントが無事に終了するまでには、様々な苦労や感動があり、打ち上げの時の満足感は忘れられないものになる。だからこそ、イベントの目的を常に念頭に置いておく必要があるのではないか。
 大道芸WCの最終目的は、その開催にあるのではなく、最終的には、静岡の街が大道芸人から親しまれる世界のメッカとなり、市民が、いつでも大道芸という文化を楽しむことが出来るということだ。そこから経済が生まれ、文化が育ち、市民にホスピタリティが醸成されることを期待している。開催はその有効な手段であり、最終目標実現のためには、継続されるべきものである。
 イベントが成功したときの満足感や高揚感が忘れられず、何年かすると開催することが目的になってしまう。理想とする街の実現のためにどんなイベントが必要か、時代や住民のニーズにあっているかを絶えず考え、イベントを点検していくことが大切である。

 4.楽しいまちづくりへの期待

 大道芸WCに携わっている多くの市民ボランティアは、それが、まちづくりだとは自覚していないだろうと思う。まちづくりというと道路をつくったり、住宅を整備したりするハードを思い浮かべる人はまだまだ多い。かといって、声高らかに、「このイベントはまちづくりの一環です」と、宣言する必要もない。楽しくて、まちのためになればそれでよいのだ。
 ポジティブに、コミカルに自分たちの手を使って、楽しみながらまちづくりが進めば、それほど嬉しいことはないと思う。



<注>
(1)田村明『まちづくりの発想』岩波新書、1987年、176ページ
(2)本田昭一『私たちのまちづくり運動』新日本新書、1987年、14ページ
(3)地域開発研究所編『地域経営とまちづくり』1987年
(4)現在の地方分権論議は、中央集権化した行財政制度の弊害を是正するという角度に中心が置かれているが、地域レベルでの自治形成能力の向上をいかに図っていくかという角度からシステムの再編成を行うという発想に欠ける面があり、その意味では「地方分権化」は「地方自治」の問題である事を重要視すべきである。
(5)和田八束編『地方分権化と地方税財政』日本評論社1993年
(6)『静岡新聞』1994年5月26日朝刊
(7)拙稿「公共投資と地方財政」和田八束・野呂昭朗編『現代の地方財政』有斐閣、1992年所収
 静岡県内では、「桶が谷沼」を活用した、ユニークなまちづくりの事例がある。 また、富士市の「エントツを活かした日本一のまちづくり」など、魅力的で個性に溢れたまちづくりが展開されており、これらは、『SRI』、『企業経営』、『経済月報』、各地の商工会議所公報誌等に掲載されているが、ここでは逐一紹介することは出来なかった。
(8)環境保全に関しては、島津康男『環境アセスメント』NHKブックス、1987年
(9)静岡大学『下田市上水道水源流域環境調査』1991年10月
(10)清和好「大道芸ワールドカップイン静岡―街はみんなの劇場だ―」財団法人静岡総合研究機構『SRI』1994,4 No.37、P.29
(補注) 本稿中、「7.たのしいまちづくり」の部分は、ライデック総合研究所非常勤研究員(当時)の飯塚正世が分担執筆した。