第3節  大井川水系過疎地域実態調査について

 はじめに

 昭和60年の4月から61年の9月にかけて、筆者を含む静岡地方自治研究会で、6回
にわたる過疎地域、山村及びこれと関連する地域の実態調査を行なった。調査日
程と調査対象は次の通りである。
 〔第1回調査〕
 昭和60年 4月 4日 静岡県大井川港管理事務所
 同年    4月11日 建設省中部地方建設局静岡河川工事事務所
 同年     4月14日 静岡県志太郡大井川町吉永在住鈴木昇太郎氏
 〔第2回調査〕
 昭和60年 6月 8日 水窪町役場、株式会社杉山製作所水窪工場、水窪大井電子
                    株式会社、守屋たかさん、(以上静岡県磐田郡水窪町)
 大井川水系過疎地域実態調査について
 法経研究35巻2号(1986) 
 同年     6月 9日 村松工房(村松康男氏)
 同年    6月10日 南信濃村役場(以上長野県下伊那郡南信濃村)、静岡県磐田
                    郡佐久間町役場
 〔第3回調査〕
 昭和60年 8月 4日 龍山村森林組合長青山宏氏(静岡県磐田郡龍山村)
 同年     8月 5日 静岡県周智郡春野町役場
 〔第4回調査〕
 昭和60年 8月25日 てづくりの里芹沢強助氏(静岡県榛原郡本川根町)
 同年   8月26日 静岡県榛原郡本川根町役場、中川根町役場、川根町役場
 〔第5回調査〕
 昭和61年 6月 8日 大井川最上流部自然調査(二軒小屋)
 同年   6月 9日 静岡市役所井川支所、井川石油安竹信男氏
 〔第6回調査〕
 昭和61年 9月 7日 龍山村在住青山孝氏
 同年   9月 8日 龍山村役場、龍山村森林組合


 以上の調査について、第2回調査、第3回調査及び第4回調査は『静岡県過疎地域実態調査結果』とし
て、収録したテープから活字におこしてある。そして以上3回の実態調査を踏まえて、「天竜川水系過
疎地域実態調査について(1)」と題し、筆者(瀬川)の責任で取りまとめたところである。
 今回「大井川水系過疎地域実態調査について」としてまとめたのは、大井川河口部における海岸侵食
状況を調査した第1回調査、大井川流域三川根(本川根町、中川根町、川根町)調査である第4回調査及び
大井川最上流部の自然、静岡市井川について行なった第6回調査を踏まえ、中間報告を意図したものであ
る。今後も関連地域の実態調査並びに資料収集を予定しており、総合的な研究成果の公表を予定してい
るところである。天竜川水系に関する前回の拙稿は、筆者が単独で取りまとめたもので、内容に関する
すべての責任は筆者個人に帰属するものであったが、今回については、執筆分担を決め、一定の共同討
論に基づくものである。すなわち、井川、本川根町、川根町の4地域およびダム開発と地域・自然の5つ
の章について、まず執筆分担を決め、次に各自執筆した原稿を持ち寄って、全体の統一・調査を図るう
えから議論し、再び原稿を書き直し、それに筆者(瀬川)が加筆、削除、修正を行なう手順を踏んだ。全
体の編集に当たっては、出来るだけ原執筆者の意図や考え方を尊重し、全体の統一を図るうえでやむを
得ない場合に限り修正を施した。
 また今回の調査報告は、ヒアリング(聞き取り調査)を中心とする現地実態調査と、さらに一定の文献
・資料的裏付けを行なって取りまとめたものである。

 本研究会では、冒頭記した現地調査の他、12回に及ぶ定例研究会を開いてきた。
 第1回研究会  (昭和59年 8月25日)
 第2回研究会  (同年   10月 6日)国土庁『過疎白書(昭和59年版)』について
 第3回研究会  (昭和59年12月 1日)今井幸彦『日本の過疎地帯』(岩波新書)に
                ついて
 第4回研究会  (昭和60年 2月23日)森薫樹『ドキュメントダム開発−−新大井
                川紀行』(三一書房)について
 第5回研究会  (昭和60年4月20日)青山宏『ある山村の革命−−龍山村森林組合
        の記録』(清分社)について
 第6回研究会  (昭和60年6月15日)天竜川水系過疎町村実態調査結果について
 第7回研究会   (昭和60年10月15日)龍山村森林組合、春野町役場、三川根調査
          結果について
 第8回研究会   (昭和60年11月30日)沢田猛『くにざかいの記録』(伝統と現代社)
                について、ビデオ上映(「まちとむらの共存」)
  第9回研究会  (昭和61年2月20日)平松守彦『一村一品のすすめ』(ぎょうせい)
         について
 第10回研究会 (昭和61年4月17日)川根町における過疎の実態について
 第11回研究会 (昭和61年7月26日)井川調査について
 第12回研究会 (昭和61年9月27日)水窪における過疎の実態について
 
 今回の調査報告は、これら共同討論の成果のうえに立って執筆されたものであり、研究会に適宜出席
して頂いた本学人文学部武居良明教授の有益な助言に負うものでもある。しかし、前回同様、ヒアリン
グの対象が一部にかたよった事は否めない。資料を提供して頂くとともに、地域の実情について包み隠
さず話して頂いた担当職員及び民間人の方々、それに調査研究に有益な助言と協力を頂いた関係諸氏に
対し心から感謝する次第である。

 1、静岡市井川
 
 人口の動向
 
 静岡市井川は、私達が分析の対象にしている「過疎地域」ではない。静岡県の過疎地域は、前稿で紹
介した水窪町、佐久間町、龍山村、春野町、そして今回取り上げる本川根町、中川根町、川根町の6町1
村のほか経過町村として、土肥町、中伊豆町、南伊豆町の3町がある。井川は、明治22年の県令で、上田
村、薬沢村、中野村、田代村、小河内村、上坂本村、岩崎村の7か村に口坂本を加えて井川村となったの
であるが、昭和44年1月1日をもって静岡市に合併され今日に至っている(2)。静岡市役所井川支所で
のヒアリングによれば、昭和44年の合併は、「当時財政的には豊かで(3)乗り気ではなかったが、政
治的配慮から村議会で突如決まった」というものであった。それで支所には当時の資料はまったくなく
なっており、職員が個人的に保存していたものを、後日の返却を約束して、私達が借りて帰るというも
のであった。
 ところで、井川の人口の動向についてみる前に、私達はその前史ともいうべき、昭和の初期から太平
洋戦争時にかけてのゴルドラッシュ≠ノ触れておかねばならない。
 大井川右岸最上流部の部落である大河内から7キロの地点に金山があり、太平洋戦争中国策として金の
採掘が行なわれ、終戦時の採掘権者は金沢工業モナあったというわる。採掘に必要な物資は、静岡から
井川までは森林組合の索道、井川本村から現場まではモチコ、強力と呼ばれる人足によって運搬された
。当時ここに集まっていた人々は従業員380人、家族を入れると1,000人を超したといわれる。昭和11年
の国税調査による当時の井川村の人口が3,152人であったから、突然30%もの人口増をみたことになる。
しかしこの金山も、「戦争がたけなわになるにつれ、『金は占領地からいくらでも賄えるので、それよ
りも、すぐ兵器の材料になる鉄の方が重要である』ということで、すべての機械は戦争に徴発された
(4)」ため、約10年間続いたゴールド・ラッシュも終わりを告げることとなった。資料「'80井川」に
よれば、終戦時昭和20年の井川村の人口は2,824人であったから、村民の35%に相当する人工が突如村か
ら消えたことになる。しかし、その人たちのゆくえは定かではない。
 さて、第二次大戦後の井川の人口の動きを示すと表2の通りである。まず戦後昭和20年代は、昭和20年
の2,824人から、昭和29年の3,385人へと約20%の人口増加をみたことが分かる。この当時の井川は、都
市部への道路といえば、大日峠を徒歩で1日がかりで行くしかなく、都市の影響を受けることの比較的少
ない、いわば地域的孤立性を保持していた。前述の『南アルプスの自然と人(5)』および『大井川物
語(6)』に大日峠越えの行程がいかに苦しいものであったかが記されている。ところが、昭和30年か
ら35年までは、昭和32年を例外として人口が増え続け、昭和34年から36年までは5,000人台を維持した。
これは昭和29年秋に始まり、32年に完成した中部電力井川ダム建設に伴う工事関係者などの流入による
一時的現象である。工事に投入された人員は延べ120万人に及び、村は突然活況を呈したといわれる。こ
れはダム建設などの大型の公共事業の際、いずこにおいてもみられる一時的ブームであった。ダム建設
が行なわれる直前の3,300人とダム建設の5,500人との差が、ダム建設に直接、間接関連する一時的流入
人口と考えてよいであろう。

 ところで、ここで特記しておかねばならないことは、ダムの補償工事の一つとして行なわれた、富士
見峠を経由した、井川と静岡を結ぶ自動車の開通である。これは第5章でも述べるように、村人たちの長
年の念願でもあった。こうして以前はまる1日かかった井川−−静岡管の高弟が、わずか2時間足らずに
短縮され、現在夏の日の長い頃なら、静岡を夕方4時半に出ても、まだ日のあるうちに到着できるように
なったのである。
 昭和36年に5,300人あった人口が、高度成長の波が押し寄せるのに伴い急減し、昭和40年代には3,000
人台から2,000人台へ減少し、昭和48年には2,000人台を割ってしまった。低成長期に入った昭和50年代
、それも50年代後半には、やや減少傾向が鈍化したが、1,000人台を維持することが出来るかどうかとい
う線にまで落ち込んでいる。

表2

昭和20
25
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37

2,824
2,992
3,381
3,385
4,105
4,465
4,253
4,589
5,172
5,574
5,363
4,643

昭和38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49

4,157
3,138
3,026
2,884
2,557
2,438
2,347
2,080
2,043
2,018
1,917
1,869

昭和50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60

1,785
1,732
1,662
1,599
1,503
1,485
1,463
1,442
1,377
1,361
1,325


(備考)昭和20年、25年は「’80井川」による。     その他は井川支所資料による。

 ここで昭和55年国税調査時点での年齢別人口構成をみてみると、0歳から14歳までが、276人で人口総
数1,469(7)人のうちの19%、15歳から35歳までが237人で16%、35歳から64歳までが735人で50%、65
歳以上が221人で15%となっている。いわゆる高齢者比率が15%というのは、昭和55年の過疎地域の同比
率が、中国18.1%、近畿17.7%、四国16.7%、東海16.1%、北陸15.8%、関東15.5%、沖縄15.0%、九
州14.8%、東北13.7%、北海道11.1%となっているのと比べれば、決して高い方ではないが、九州、東
北、北海道のレベルを上回っている(8)。
 こうして高齢化が地域社会の重要な問題となっており、井川支所でのヒアリングでは、この他に、仕
事の場所がない、嫁さんの来手がいない、小学校が複式教育になった。中卒後99%が静岡市内へ行き1人
くらいし帰って来ないことなどをあげていた。そこで井川では観光に力を入れており、昭和61年度から
始まる『第六次静岡市総合計画』でも、井川を観光として位置づけ(9)、同市企画調整課を中心に計
画が練られているところである。
 現在、井川から上流部に3か所の発電所建設が計画されている。明石発電所(昭和61年3月着工、昭和64
年3月運転開始予定)、二軒小屋発電所(昭和63年着工、昭和66年4月運転開始予定)、赤石沢発電所(昭和6
3年4月着工、昭和67年4月運転開始予定)がこれで、最大出力84,500キロワットが予定されている(10)
。このうち、明石発電所については、本年6月私達が入山した時には、まだ工事関係車輌は見られなかっ
たが、研究会員からの報告によれば、本稿執筆時点(9月)ですでにブルドーザーが山間に大きな音を響か
せているとの事である。これら発電所の工事によって4、500人の工事関係者が来るといわれるが、これ
をもってしても地域振興のためには焼け石に水ほどの効果しかないであろう。これまで井川では外部の
人の手になる公共的事業が行われてきたが、その波及効果は一時的なものにすぎなかった。観光開発が
期待される由縁である。

 2、産業の実態

 次に井川の産業の実態についてみよう。「'80井川」によれば、井川の土地利用は、総面積33,000haの
うち宅地19.8ha、田4.6ha、畑115ha、山林17,650haとなっており、山林としての土地利用が圧倒的であ
る。産業別就業人口を昭和55年時点で見ると、就業総数866のうちサービス業が184で21%を占めている
。農業は173で20.0%、建設業は166で19.2%、林業は101で11.7%などとなっており、製造業は23で2.7
%にすぎない。
 農家戸数は、昭和35年の283戸から昭和55年の248戸へ減少し、経営耕地面積0.3ha未満の零細農家が
173(70%)と最も多い。主要農産物は茶、椎茸、ワサビで、生産量はそれぞれ22.5t、24.9t、15.4tであ
る。ほかに肉牛の生産が88頭を数えている。(いずれも昭和55年調)
 林業については、国営林1,855haに対し、民営林47,020haとなっており、民営林所有者660人のうち5ha
未満が312人(47%)と零細経営が多い。木材生産量は11,684m3で、ほかに椎茸原木の生産が411m3ある。
(いずれも昭和54年統計)
 商工業については、事業所数で建設業4、製造業5、卸小売業39、運輸通信業4、サービス業23、公務1、
総数76となっている。商業は平均従業員2名、製造業は4名と零細である。(いずれも昭和53年)
 観光については、昭和48年に41万7千人、昭和58年に29万8千人の観光客を数えているが、市内主要観
光地に占める比率は7%(11)と小さい。井川支所でのヒアリングによれば、現在一番力を入れている
のは観光で、先にも記したように本庁(静岡市)の手を通じて行なわれている。学者、業者、議員などか
らなる専門委員会が設けられ、目下具体策が模索されている。昭和44年に静岡市と合併して以来、地域
の行政施策の主体が静岡市へ移行した事はいうまでもない。現在支所で行なっている仕事は、林政、土
木、農政、簡易水道にすぎない。観光面で計画として登っているのは、白樺荘の拡張、井川北小の跡地
の多目的広場化、井川高原の人口スキー場計画などであるが、要は観光地としての井川の特色をどれだ
け出せるか、またそのためのコア(核)づくりであると思われる。

 3、村おこしの気運 1

 さて今回、昭和61年6月の井川調査の主要目的の一つに、井川同心会による村おこし運動の調査があっ
たことは冒頭にも述べた。同心会のリーダーである安竹信男氏の経営するガソリンスタンドは、井川本
村の中心部から少しはずれたところにある。私達が井川奥地=大井川源流部の調査を終えて、同氏と会
ったのは、6月9日午後4時頃であった。以下、残りのスペースで、この同心会による村おこしの気運とで
もいうべきものを紹介しておこう。
 同氏が学生生活を終えて家業のガソリンスタンドを継ぐために東京から帰って来たのは、昭和44年3月
であった。その時、土地の人が何を考えているのか、従って村の動きというものが分からず、何か活動
をしなければならないということが運動の契機となった。年寄りから生意気だと言われたりもしたが、
とりあえず仲間7人が集まって同心会をつくった。はじめは、観光客のために地域の美化運動に取り組ん
だり、アンケート調査もした。7人はそのまま活動を続けており、今ではマラソン大会(井川もみじマラ
ソン)もやっており、これは外から人に来てもらいたくて始めたもので、市の補助も受け、昨年(昭和60
年、第2回)は370〜380人が来た。これは、元々井川体育村構想としてあったもので、現在では市の『第
六次総合計画』でも取り上げている。昭和51年には、井川よろず市会が出来、今は井川朝市になってい
る。10軒ほどを回って資料を収集し、井川の歴史を守る会の設立を呼びかけたが、これは失敗した。当
時の資料は支所の地下に眠っているという。村おこしを産業に結びつけたいと思って、県民の森に企業
組合ライチョウをつくり食堂を始めたが、まだ黒字を出すに至っていない。というのも、土、日のみの
営業であり、女子従業員がお茶とかPTAなどで休むという問題がある。しかし5月には総会を開き今年
はトントンにもっていきたいとしている。その他、ふれ合い道場でループタイづくりをして、第1回マラ
ソンの記念に出したこともあり、林業の人に雨の日にやってもらいたいと思ったが、疲れるということ
でやってもらえないのが現状である。また、500から600本、ぶどうの苗を植えたこともあるがだめだっ
た。
 以上のような多彩な活動に対して、過疎という重圧が文字通り重くのしかかっているのが現状である
。しかし、観光を中心とした村おこしの気運が起きたことは否定できない。それは井川の長い歴史の中
で、一つの画期的なエポックであるに違いない。

 4、村おこしの気運 2
 最後に本川根町における村おこしの実態について、「手づくりの里」の経営者であり、「ふる里宅配
便」の副会長でもある芹沢強助氏へのインタビューから、その一端を紹介しておこう。

 〔「手づくりの里」〕
 芹沢さんは現在65歳になられるが、昔は町で製材工場を経営する社長さんであった。その後東京で10
年ほど矢崎計器の下請をなさったあと、60歳をきっかけに自分の好きなことをして残された人生を送ろ
うと町に帰って来たそうである。
 当時木材は不況であったが、観光が盛んになりつつあった。しかし、地元の特産というとお茶、椎茸
、わさびだけで、その他の既製の土産物は売れてもマージンがせいぜい3割程度もらえるだけであった。
そこで、なんとか100%町の収入になる物はないかと捜した結果、素材が近くにあり、格安であることか
ら竹細工をと思い島田の職人さんに色々と教えてもらい一人で始めたのがきっかけとなり、産経同志会
への参加から仲間が増え、当時すでに廃校となっていた小学校を町から借り、静岡県工業試験場の移転
に伴う廃棄処分の機械を貰って始めたのが「手づくりの里」であった。その後振興センターから宝くじ
の助成金でろくろを一台貰ったりしながら管理センターの売店で作品を売ったり、千頭駅前で夏のシー
ズンに二、三回売りに出すという状態が続いた。しかし、海洋センターの建設により小学校がつぶされ
、家で製作するようになってしまった。そして、このままではせっかく始めたことがだめになると思い
、57年の7月7日に大井川林産組合の家を借り今の店を始めたのである。3人で、1年目は1人20万円程度の
赤字覚悟で始めた店であったが、初日の売り上げは7千円(「ほんとうにうれしかった」と当時の心境を
語る芹沢さん)であった。
 昨年(59年)初めて1年間通して営業した結果650万円の売り上げがあったそうである。今年は1,000万円
ほどになるのではないかと予想される。昨年から、松坂屋、西部、伊勢丹の各デパートへも出店してお
り、最近では町でも宣伝してくれるようになったそうである。仲間はみんなお年寄りで、営林署を退職
した人や、夫婦で年金をもらい生活していた人たちだったため、人とのつき合いが少なく、店を開けた
当時「いらっしゃい」が言えずに困ったり、自分の作った作品が誰がつくったのかわからず困るといっ
たことが色々あったようである。今では、製作意欲も旺盛で、老人クラブの旅行へは行かず、作品の勉
強になる所へ行きたいとはりきっている。
 店は、責任者が8人にて、交替で店番をし、他に12、3人が作品を出すという形態をとっている。作品
には個人別に番号をつけ、売上げ台帳に記録し、月末に締め翌月初めに精算する方法をとり、売上げか
ら店の責任者は15%、作品提出だけの人は20%を手数料として負担している。負担金については売上げ
が上がれば減らしていきたいと考えているそうである。このことは作品の値段についてもいえ、売れる
商品は値段を下げるくらいの気持ちでこれからもやっていきたいと話している。
 現在、静岡、沼津、浜松などへも作品を出しているそうだが、将来これを東京、名古屋方面にまで拡
大していく計画をもっており、また会が長く続いていくためにも、個人の作品だけでなく共同作業で作
る作品を増やしていきたいと考えており、昨年はパタパタ(木のおもちゃで芹沢さんが最初に作った作品
である)を3千個作り販売したそうである。毎年10月から2月はオフになる為、今年は中川根の滝さんがア
イデアを提供してくれた竹の昆虫を作る予定である。
 その他教育委員会から小学校の椅子100個戸の注文を受け製作中であり、ふる里宅配便のために、けや
きの花台を700作ったそうである。
 現在の成功について、年寄りなので手間を考えずに親切なのがいいのではないか、若い人ではまとま
った収入にならないので無理である、と芹沢さんは言う。また、営林署の退職者など仲間はこれからも
増えてくるだろうが、わきあいあいとやれるものを作っていきたいとこれからの抱負を語ってくれた。

 〔「ふる里宅配便」〕
 昨年始めたこの制度は予想以上の反響があり、当初700人が会員となった。このうち7割の人は、町と
まったく関係のない人達だそうである。会員になると町の特産品が送られるだけでなく、町民証が与え
られ、町の施設や宿泊が1割引になるので町を訪れる人もいるという。今年の夏には、奥大井ふるさと振
興会がこうしたふるさと会員に呼び掛けて「ふるさとツアー」を企画し、県内から22家族63人がふるさ
と気分を満喫した(13)。

 宅配便の盛況ぶりは、土地の女性達にやる気をおこさせ、金山時ミソ、梅干し、そば粉、しその葉ジ
ュース、まんじゅうなどの手作り品が出来ているが、販売するには食品衛生法の許可が必要であり、現
在町を通じて保健所に交渉中だそうである。

 〔「創造と生きがいの里」〕
 町民全体を対象として作られた施設であり、陶芸と木竹が出来るようになっている。機械は職業訓練
校の統合時に分けてもらった物で、陶芸を陶芸クラブが、木竹を「手づくりの里」が管理している。1人
1日千円の負担で使え、指導もしてくれるとのことである。「手づくりの里」としては、他に共同作業場
を持とうとしていたが、町からぜひ使ってほしいと言われ、現在の施設を管理し、製作も行なっている。
秋には籠編みの講習会を予定しているとのことである。
 以上、本川根町の現状について実態調査を行ったのであるが、既存の産業の振興や、いわれるような
観光開発が、果たして過疎化の進行を食い止め、計画にあるような人口の増加をもたらすことが可能で
あるのかどうか、必ずしも満足のいく結論を見い出し得ないのが現状である。しかし、町の進むべき方
向として、その重心を観光開発にかけていることは事実であり、民間人の手で地域の内側から自主的な
動きが出てきたことは、これを最大限に尊重せねばなるまい。中川根町の観光開発を、先にみた井川の
それと連動させて考えてみることも一つのポイントになるのではあるまいか(14)。

 5、ダムと開発と地域・自然

 次にやや異なった観点から、過疎問題を考えてみることにしたい。ダム建設それ自体は、過疎対策と
は一応無関係であり、農業用水、飲料水、工業用水の確保、電源開発、流量調節(洪水防止)を目的とす
るものであることはいうまでもない。しかし、ダム開発が地域の振興の手段として行なわれてきたこと
もまた明らかであり、アメリカ、1930年代大恐慌への対策としてとられたニューディール政策の一環で
あるTVAがその典型例である。我が国においても、第二大戦後の地域開発において、河川奥地の電源
開発が産業復興の観点から行なわれ、地域振興の旗印が高く掲げられたことは周知の通りである。しか
し、電源開発の恩恵は電力資本と鉄鋼業など重化学工業が享受したところであって、地元地域には及ば
なかったことがたびたび指摘されている。宮本憲一教授は、「特定地域開発の決算書をつくってみると
、明らかに、これは電力資本の水資源の独占的利用−−地域独占の完成にあったといってよい。」
「特定地域開発のおこなわれた地点は、今は巨大なダムを残して過疎農村となっている。………日本経
済の復興の育ての親ともいうべき特定地域の地元民は、育てた子供たる財界からすてられたのである
(30)。」と述べている。
 本章では、大井川に建設されたダムを取り上げ、ダム建設が地域社会にどのような影響をもたらした
か、またそのことが過疎問題とどう関連しているのかを考察したい。

 井川ダムと地域社会の変貌
 大井川の上流部で、現在では南アルプスの玄関口である静岡市井川地区は、東西12キロメートル、南
北68キロメートル、総面積約500平方メートルの地域で、昭和27年頃、戸数553個、人口2,873という小さ
な山村で、山間奥地の農産物は、粟、稗、玉蜀黍などであった。他は山に猟をし、川で魚を行なうくら
いで、主な仕事は川狩作業くらいのものであったといわれる(31)。この静かな、貧しい山村にダム
建設の計画が起こると村は騒然とした。長い間、住み慣れた村が水没してしまう事は村人にとってこの
上ない苦痛であったからである。
 ダム建設に関する最初の話し合いは、昭和27年4月、井川村で村民代表10人と中部電力との間に開かれ
たが話し合いは決裂した。そこで、静岡県総合開発事務局が調停に乗り出した。また昭和27年6月には、
村民達も栗山村長を会長とするダム対策委員会を組織し、前後20回に渡る協議を行ない、ダム建設に対
する以下の3点の代償を求める決議をした。

 @村民が長年にわたって念願している井川−−静岡の大日道路を、井川ダムの完工するまでに完成す
  ること。
 A村造りを進め文化の水準を高めること。
 B村民の納得のゆく個人補償の完遂と、現在の生活を上回る民生の安定をはかること。

 そして、さらにこの三大原則を基として、公共、厚生施設の完備、移転の補償及びそれらの補償に付
帯した条件などを書き並べた膨大な要求を作成し、この要求に対して満足な回答が得られないならばダ
ム工事を認めることは出来ないとして中部電力に提出した。
 また、昭和30年6月16日、村では村長はじめ35人からなる村づくり推進委員を選定し、水没後の具体的
な村づくりについて中部電力と折衝することとした。
 まず、造地計画について標高665.4メートル以上800メートルまでの間で数か所の土地が選定された。
特に水没地の代替耕地は農林省と静岡県との協力により適地調査をした後、西山平をはじめ割田原、久
保山ほか数地点を、農地法により国有地を未墾地買収し、これを中部電力が田及び畑に造成した。
 未墾地買収の面積は、畑地、山林、原野あわせて116,578坪にのぼり、この中から田を21,103坪、畑
37,969坪、採草地36,859坪、総計97,930坪を造成することになった。未墾地買収の面積に比べて実際に
造成された農地面積が1,800坪以上も縮小したのは、村外移転希望者が2、30戸くらいの見込みであった
のに対し、実際には99戸となり、代替補償を受ける人達の中に代替でなく金銭決済によって補償してほ
しいという人が増え、代替農地が減ってしまったことによる。
 補償の第二次折衝は宅地造成であるが、水没者を二通りに分け、比較的営農面積の少ない者、及び農
業を生業としない世帯を第一分類とし、これを収容するために湛水地内の水深の浅い地域を埋め立て5,
523坪の宅地を造成したのである。そして、これに伴う道路、排水路など1,475坪、未分地362坪、側敷23
坪を造成して44戸を移住させた。次に水没者のうち農業を主体とする世帯を第二分類とし、これを収容
するために西山平を造成して25戸を移住させた。
 補償の3大原則の一つである文化村建設について、中部電力は村の要望に従い次の事業を完成していっ
た。
 井川えん堤から湛水の末端、最上流部落の大河内まで、湛水池の右岸に6メートル幅の幹線道路を、11
キロメートル完成させた。また、対岸の岩崎、上坂本の両部落を結ぶ2.7メートル幅延長2キロメートル
の上岩崎道路を建設し、この道路と右岸の幹線道路とを結ぶために湖面を横断して、2.7メートル幅延長
258メートルの井川大橋を架設した。この他、玉川村横沢から大日嶺開拓村を経て井川えん堤に至る道路
の工事が、国、県、中部電力及び井川村の四者によって着手され、昭和33年3月、井川林道として完成し
た。また、上水道の敷設、山地農業研究所を兼ねた西山公民館、これに並設した共同作業所、火葬場、
プール、郵便局、派出所、駐在所などが設けられた。(以上『大井川物語』より)
 これらの補償を経て井川ダムは完成された。しかし、前にも述べたが、村外移転希望者が当初の2、30
戸の予定が、実際には90戸にのぼり、その後も人口流出が続いている。
 商品経済の波が井川村においても進みつつある時期に、ダム建設による村づくり計画は井川村の急激
な都市化を進展させ、人口流出を加速させたといえる。それは第一に、それまでの自給自足の生活がく
ずれつつある時期に、ダム開発により、静岡という都市への交通が容易となった事による。交通手段の
整備による都市との時間距離の縮小は、本来ならばその地域の発展をうながすはずだが、農山村の経済
開発が並行しない場合には人口流出促進にむすびつく。つまり、「都市の文化や商品経済にまきこまれ
る度合いが強ければ強いほど生活に便利なところに住み、所得を高めたいという欲望が高くなるし、た
とえ都市との所得格差が小さくても、この格差に大きな抵抗感を持ち格差を縮めようという意識が働く
。そして農山村にとどまっても将来性は期待出来ないと考えるものは農業をやめて都市に流出してゆく
。逆に都市から遠く離れて都市化の洗礼をあまり受けていないところでは、たとえ都市との所得格差が
大きくても、それほど不満感は持たず、現状維持的傾向が強い(32)」からである。
 次に補償により村人は土地から解放されたといえる。これは祖先から受け継いだ土地はダムの底に沈
んでしまい、替わりに土地を与えられたとしても、それは既に愛着ある祖先の土地ではない。これに加
え、一時金を受け取ることが出来たなら、都市に出て行く条件は整う事になる。
 一方、村に残った者は、その後どうであろう。静岡県は早い時期から井川の村づくりを考え井川の山
地農業について調査を行なっており、県の農業指導者高島権三技師を送り、農家の代表を選び、駿東郡
原里村に派遣し、技術を習得させ、あるいは品種の選定などあらゆる研究を積み重ね、海抜800メートル
に寒冷地稲作を成功させたのである。=このような静岡県の努力により、一時的な所得の増加はあったが
、高島技師が村を去ってからは年々収穫量が減少していった(33)。 ダム開発により、それまであ
った村の秩序は急速に崩壊した。ダム開発が行なわれた時は、それまで自給自足を中心としていた村に
も、徐々に商品経済が浸透して行こうとする時期にあたっていた。ダム開発による道路整備は、地方都
市に近く、しかも東京という大都市にも比較的近い都市の影響を受けやすい村の住民にとって、一家し
て転出して行くきっかけとなった。また、都市の側からみると、農村に市場を求める資本は、村への交
通が容易になると同時に、大量の商品を送り込み、村人達にその消費者としての資格を付与したといえ
る。良きにつけ悪しきにつけ、農家の家庭には電気製品はあふれ、生活は向上していくが、それまで村
は自給自足が中心であったため、消費に伴う急速な所得向上が必要となってしまう。そして現金獲得の
機会を都会に求め、賃金労働者となっていったのである。仮にダムができなくとも、井川には商品経済
は浸透していったであろう。しかし、ダム建設は村を一時的に「豊か」にするとともに前記現象を急激
に早めた。そして、その急激な変化に村人が冷静に対応できたかは疑問である。

 大井川河口部における海岸侵食
 大井川町吉永地区は、大井川左岸河口付近に位置する。この地区に足を踏み入れるとまず気付く事は
、海岸線に対して平行な道と垂直な道と互いに交差しており、区画整理したかのごとく整然としている
ことである。これは、この地区の海岸線(浜)が、1年間に約2メートル進出し、海岸線に松を植え、その
南側に堤防を築いていったためである。そして海岸線が沖に進むごとに、また松を新しい海岸線に植え
、堤防を築いた。新しい松林と堤防をつくると、北側の松林のあった場所は、道から専用の紐を帳り、
道路から紐の先端まで払い下げられた。残った堤防の後は道路となった。現在でも県道焼津大井川線を
行くと、道路脇の民家の入り口には松が立っているが、それはその松林の松のなごりである。
 このように、かつてこの地区の海岸線は沖に向かって進出していた。そして、この海岸線は遠浅の砂
浜であった。これを裏付ける証拠として、この浜でかつて塩の生産を行なっていた事実がある。この地
区の塩の生産は当初隣組単位で塩田が形成されていたが、戦後の混乱期にヤミ塩の生産を個人で生産す
る者が増え、隣組単位の塩田はくずれ、浜はヤミ塩田でいっぱいになったくらいである。その後、経済
が安定してくると専売局の取り締まりも強化されヤミ塩生産は後退していった。
 ところで、現在の大井川の海岸線に行ってみると、かつてのような塩田ができるような砂浜ではない
ことが分かる。ここに大井川町教育委員会の発行した『わたしたちの大井川町』という小冊子がある。
この一部を紹介しよう。「少し前まで、大井川町の海岸では砂遊びや地引きあみもできました。しかし
、ここ数年のうちに以前あった砂浜も削り取られ、現在では町内で砂浜をみることは、ほとんどできな
くなりました。近くの人に聞いてみると、むかしは砂浜が波うちぎわから150メートルもあり、浜で塩を
作っていたこともあったそうです。」
 このように、かつて大井川町の海岸は、砂浜の海岸であったことが明らかである。年に2メートルも進
んでいた海岸線が一転して後退し始めたのは1960年代に入ってからとされている(34)。この時期は
、大井川水系にダムが建設された時期と一致している。たとえば、奥泉ダム56年(昭和31年)、井川ダム
57年(昭和32年)、笹間ダム60年(昭和35年)、畑薙第二ダムが61年(昭和36年)、畑薙第一ダムが62年(昭和
37年)、にそれぞれ建設されている。水系は現在11のダムを抱えている。前記ダムの他本流に大井川ダム
、支流には千頭、大間、寸又川、横沢、境川ダムが存在している。このうち横沢ダムを除いたダムの総
貯水量は、2億8千771万立方メートルだが、既にこの約20%の5,914立方メートルが砂で埋まっている。
実に霞ヶ関ビル120杯分近くにもなる大量の土砂がこれらダムに貯溜されている(35)。これに近年整
備が著しい砂防用ダムなどの構築物を含めると貯水量はこれ以上となっている。また、日本の経済成長
と一致して、この水系の砂利採取も増加していった。ピークとなった昭和42年には年間162万立方メート
ルもの砂利が採取された。これは霞ヶ関ビルの3.2杯分という量である。最近ではピーク時の3分の1程度
に減少したとはいえ、78年には57万立方メートルである(36)。これだけの量の土砂が下流に流れな
くなったのである。海岸侵食とダム建設を結びつけることは不自然であろうか。
 これに対して建設省サイドは、大井川港の沖に突き出た突堤が、漂砂のバランスを微妙に変え、川か
ら出た砂が海岸に到達するのを阻んでいるとしている。しかし、大井川右岸の吉田町側においても突堤
が存在しないのに、海岸侵食が進んでいるのはどういう事であろうか。
 さて、つぎに大井川水系におけるダムの効用に目を転じてみよう。第一に、電力需要を満たしている
。第二に、志田榛原及び小笠東部に至るまでの飲料用水が確保された、第三に、志田榛原地区への農業
用水が確保された。最後に第四として、毎年のように大井川の氾溢に悩まされていたこの地区にダム建
設による流量低下及び流量調節により、大井川の氾溢がなくなった。以上である。このように、ダム建
設によりこの地区の産業振興と文化生活の向上に大きく寄与している。しかし、その効用を享受できた
のは、ほとんど下流域であった。

 中流域における影響
  中流域の川根町に大井川の支流笹間ダムがある。このダム湖に笹間川が流入している地点に桑山地区
というところがある。この地区で、笹間川が運ぶ土砂が急速に堆積し始めた。これにより河床が上がり
、川岸の茶畑を削り河原にしてしまったほどである。では、河床が上がり流量が低下したことは、中流
域にどのような影響を及ぼしたであろうか。森薫樹氏の『ドキュメント・ダム開発』を参考にして、こ
の点を考えてみよう。まず、この地区は昔から茶の名産地として知られているが、これは大井川に発生
する霧が茶に好影響を及ぼすためであり、又地下水も減少し、茶の樹勢を衰えさせた。そして、堆積し
た土砂の河原での石の照り返しが茶の葉を焼くなど、この地方の重要な地場産業である茶生産に深刻な
ダメージを与えた。
  また、大雨が降ったときの河川の増水はかなりのもので、河床の上昇による大雨時の浸水が上中流域
各地で発生している。特に、寸又川ダム上流部の寸又峡温泉に向う、県道千頭停車場寸又峡線の一部は
、出水時の浸水の危険があり、寸又峡温泉の大間地区で陸の孤島となってしまうこともあるといわれる
。また、ダム開発によりそれまで川で筏を組み下流まで木材を輸送していたが、流量の低下及び川をさ
えぎるダムにより、車輌による輸送に転換することになったことも見逃せない。これにより、それまで
この地区に多数存在していた川狩職人は転職を余儀なくされた。
  このように、上中流域においては、ダム開発による産業の不振と輸送形態の変化をもたらし、労働力
の流出という形で人口流出のきっかけとなった。

  ダム開発の光と影
  電源開発、水の有効利用、これに伴う地域開発、これらの言葉だけに注目すればダム建設は確かに有
用である。しかし、その弊害は上流から下流域に至るまで各地に発生している。
  一方、その利便を享受しているのは主に、下流域といえる。上中流域と下流域とでは人工的に圧倒的
に下流域の方が多い。言葉を換えれば都市の方が多いのである。街は平和で豊かな生活で満ちあふれて
いるが、これは山村に生活している人々、あるいは生活していた人々の苦悩から生み出されているとい
えよう。
  そのような意味での幻影とでもいうべきものを追い求めて、私達は大井川源流部近くに足を運んだ。
本年6月8日、梅雨空の下、私達は井川湖から約30キロ奥へ入ったところにある、東海フォレスト経営の
二軒小屋を出発した。「明るいうちに戻れないからよした方がいい」という小屋の人の忠告を振り切っ
て、3名からなるパーティは出発した。東俣と呼ばれる沢を遡ぼること2時間、鉄砲と呼ばれる、かつて
川狩の時代に川の流れを利用して、伐採した木を流すために作られた堰の跡に到着した。写真で見ると
、木で作ったダムのようであり、ビーバーがつくるダム≠ノどこか似ている。しかし、私達が見たも
のは、沢の両岸にわずかにそれらしきものが残っているにすぎない残骸であった。かつてまだ大井川に
ダムがなかった頃、人々はこの鉄砲という方法で下流へ木を流していた。これに従事する作業員も多数
おり、この人々が必要とする物資が、二軒小屋の裏手にある転付峠を越えて、山梨県側から運ばれてい
たようである。当時、河や山は生きていたのである。そして、河や山を生かした人達の生活を支えてい
たのである。共存、共栄の時代であった。今は、河は下流の経済活動を支え、上中流域に対してはむし
ろ敵対する関係に立った。私達は翌日転付峠にも登り、この足で当時の生活を確かめたのであった。
 昨日までの梅雨空が嘘のように晴れあがり、富士山が雄姿を現していた。その富士山の方向、転付峠
から直線距離にして2、3キロの所、緑の山肌に銀色に光るパイプラインが見える。これは、二軒小屋の
すぐ前を流れる大井川から、山梨県側広河原にある東京電力発電所へ水を送っている送水管である。実
際に近づいてみるとその大きさは分かるであろうが、写真を見ればお分かりかと思うが、今回はそれは
不可能であった。これを流れた水は、富士川の支流である早川へと注いでいる。大井川の水は、何のこ
とはない、電力会社の手で富士川へと落とされているのだ。なぜこれが東京電力のものかは、イラスト
のように、二軒小屋の前、取水口の所に、表8のような標識によって判明する。

  おわりに

  以上、私達は大井川水系に属する四つの地域について、その過疎の実態、地域振興の現状ならびのそ
の方向性、そして、ダム開発(電源開発)と過疎あるいは自然との関連について、現地調査結果を踏まえ
、一定の資料的裏づけをとる形で考察してきた。そこで、改めて私達は、過疎地域の現状が予想以上に
厳しいものであることを痛感せざるを得なかった。林業、茶業といった地域の基幹産業の衰退ないしは
不振に加えて誘致工場の経営困難、ダム建設に伴う地域社会への様々な影響がそれである。こうした諸
困難が相乗的に作用し合うことによって、以前ならば村落の共同体的性格に裏づけられた秩序によって
、都市の側からの人口吸引圧力に対して、一つの強力な歯止めとして機能していたものが、商品化ある
いは都市化の浸透によって、逆に人口流出要因へと転化したのであった。こうした情況をとらえて、過
疎地域が適疎≠ノなった。過疎の時代は終わった、これからはそこに残った人達が、地域毎にそれぞ
れどのように個性を発揮し、生き残っていくかが問われる競争の時代だ、と説くむきもないではない。
  確かに、私達が今回分析の対象にした、大井川流域の地域においても、そこに住む民間人の自主的、
自律的な動きが、最近ようやく見られるようになり、行政による支援体制も整備されつつある。従って
、地域の人々を励ます意味でかかる主張をするのであれば、まさしくそれは時宜をえているといえなく
もないであろうが、過疎を生み過疎を進行させた国土政策あるいは地域開発政策全体に関する従来のあ
り方が十分に反省されないまま、従って今後とも多かれ少なかれ過疎を進行させる政策がとられ続ける
一方、返す刀で地域間競争を説き、その過酷なレースに勝ち残った人たちで構成される社会を適疎
と仮にいうのであれば、それは地域にとって決して幸福なことではあるまい。

表8

河川名
1級河川  
       大井川水系大井川
       富士川水系内河内川
       富士川水系保利沢川
許可年月日許可番号
昭和51年8月18日  50建部水第329号
昭和51年8月 9日  50建関水第484号
許可期限
昭和80年12月31日
許可権者名
1.建設省中部地方建設局長
2.建設省関東地方建設局長
水利使用者名
東京電力株式会社
水利使用の目的
発電
取水量
最大5.34m3/s
     大井川   4.99m3/s
     内河内川  0.21m3/s
     保利沢川  0.14m3/s
貯留量
152.800m3
取水施設管理者名
東京電力株式会社  早川第三発電所長
所轄事務所名
建設省静岡工事事務所  (tel 0542−82−0135)
                (tel 0552−52−5491)

  しかし、ここでもまた、本文中で若干地域振興の基本的あり方について言及したことを除いては、前
回の拙稿「天竜川水系過疎地域実態調査について」と同様、軽々しく振興策の具体的あり方について口
出しすることは、いまだ調査・研究が入口に入ったにすぎない現段階では差し控えたい。いずれ、より
立ち入った総合的研究成果を公けにする形で、今後その責を果たしたいと考えている。
   (龍山村調査を前にして。1986・9・7) 




  注
  (1) 拙稿「天竜川水系過疎地域実態調査について」静岡大学法経短期大学部 
   『法経論集』第56・57号、1986年3月
  (2)  静岡市役所「'80井川」
  (3) 本文に記した通り昭和44年時点の統計資料がないので少し古いが昭和39年
    度一般会計歳入予算を示せば、表1の通りである。村税の比重が57.7%を
      占めている。

表 1 昭和39年度歳入予算

科目

 1.村税
 2.分担金
 3.使用料
 4.国庫支出金
 5.県支出金
 6.財政収入
 7.寄付金
 8.繰入金
 9.繰越金
10.諸収入
11.村債
歳入合計

予算額(千円)
90,704
11,946
2,661
30,416
1,761
3,542
300
10,200
500
300
5,000
157,330

比率(%)
57.7
7.6
1.7
19.3
1.1
2.3
0.2
6.5
0.3
0.2
3.1
100.0


  (4) 近田文弘『南アルプスの自然と人』南アルプス研究会、昭和57年。ゴール
    ド・ラッシュについての記述はすべて本書によっているが、この部分は、
       中部電力(株)静岡市店の北村常夫氏が、本書のために特別に寄稿されたも
       のだとされている。同書212ページ参照。
  (5) 近田文弘前掲書212ページ〜214ページ。
 (6)  武市光章『大井川物語』二昌堂書店、昭和42年、320ページ〜322ページ。
 (7)  この総数は「'80大井川」の国税調査の数字によっており、表1の昭和55年
    の数字と一致していない。
 (8) 財団法人日本経済教育センター『日本の過疎山村離島』昭和59年、4ページ。
 (9) 静岡市『第六次静岡市総合計画』昭和61年3月、122ページ。
 (10) 中部電力「大井川上流の開発」による。
 (11) 『第六次静岡市総合計画』121ページ。
 (12) 本川根町『第二次本川根町総合計画』第四節参照。
 (13) 『静岡新聞』昭和61年7月28日
 (14) 本章で参考にした文献・資料は、以下の注(15)から(25)に掲げた。引用箇
    所は特に明示していないが、これら文献・資料によっている。
 (15) 森薫樹『ドキュメント・ダム開発』三一書房、1983年。
 (16) 本川根町「長島ダムの経緯」
 (17) 建設省長島ダム工事事務所「大井川長島ダム」
 (18) 本川根町『統計でみる本川根町』
 (19) 本川根町『後期過疎地域振興計画(自昭和60年至昭和64年)』
 (20) 本川根町『第二次本川根町総合計画』昭和61年。
 (21) 本川根町『ほんかわね町制施工25周年記念要覧』昭和56年。
 (22) 本川根町『本川根の過疎の現状と課題』
 (23) 本川根町教育委員会『ふるさと本川根』昭和58年。
 (24) 本川根町『本川根町基本計画(目標年次昭和60年)』
 (25) 静岡地方自治研究会『静岡県過疎地域実態調査結果』昭和60年。
 (26) この間の事情については、朝日新聞静岡支局編『静岡の戦争』(彩流社、
    1985年)に詳しい。
 (27) 『静岡県過疎地域実態調査結果』88ページ。
 (28) 中川根町『中川根町過疎地域振興計画(自昭和60年至昭和64年度)』11ペー
    ジ。
 (29) 以上茶生産及び茶業に関する記述は『静岡新聞』昭和61年4月16、25、26、
       5月9、10日の各号によっている。
 (30) 宮本憲一『地域開発はこれでよいか』岩波新書、1973年、26ページ。
 (31) 武市光章『大井川物語』二昌堂書店、昭和42年、527ページ。以下、井川ダ
     ムと地域社会に関する事実経過説明は本書によっている。
 (32) 今井幸彦『日本の過疎地帯』岩波新書、昭和43年、54ページ。
 (33) 武市光章、前掲書、537ページ。
 (34) 森薫樹、前掲書、43ページ。
 (35) 前掲書、43ページ。
 (36) 前掲書、43ページ。