第2節 過疎地域実態調査(天竜川水系) 天竜川水系過疎地域実態調査について はじめに 昭和60年の6月から8月にかけて、筆者を含む静岡地方自治研究会で3回にわたる 過疎地域の実態調査を行なった。調査日程と対象は次の通りである。 6月8日 水窪町役場、株式会社杉山製作所水窪工場、水窪大井電子株式会社、 守屋たか。(以上水窪町) 6月9日 村松工房(村松康男) 6月10日 南信濃村役場。(以上南信濃村)佐久間町役場。 8月4日 龍山村森林組合(青山宏)。 8月5日 春野町役場。 8月25日 手づくりの里(芹沢強助)。 8月26日 本川根町役場、中川根町役場、川根町役場。これらのヒアリング内容はテープに収めてあり、第3回目の3川根の調査を残して、『静岡県過疎地域 実態調査結果』(1986年1月)としてワープロで活字におこしてある。本稿は同『調査結果』を踏まえて、 調査報告というかたちで、私見を交えて一応の取りまとめを行なったものである。図を見れば分かるよ うに、水窪町、佐久間町、龍山村、春野町(以下静岡県)それから南信濃村(長野県)は、天竜川の流域と して一体性をもった地域である。本川根町、中川根町、川根町は大井川という異なった流域に属してい る。3川根については、別途調査報告を書くつもりである。 いわゆる過疎問題については、昭和41年の経済審議会地域部会で初めて定義づけがおこなわれ、45年 の過疎地域対策緊急措置法が制定され、以後一定の対策が講じられてきた。本稿は、この過疎問題の本 質を論じたり、その対策についてあるべき方途を見い出そうとするものではない。そのための準備作業 として、静岡県の過疎地域の実情を主としてヒアリング結果からまとめたものにすぎない。しかし、以 下の調査報告をよく理解してもらうために、多少過疎とは何かについて議論をしておきたい。先ほどの 経済審議会による過疎の定義は次の通りである。「人の減少のために一定の生活水準を維持することが 困難になった状態。」いわゆる過疎法の人口及び財政力要件もかかる認識に基づくものである。だがこ れは、水が高きから低きへ流れるのたとえのように、あまりにも表面的にすぎる。内藤正中氏は次のよ うに述べている。 だが、経済審議会や上述の<過疎法>で表明されている過疎問題に対する認識では、何が農山漁村に 過疎をもたらしたかについての明確な問題意識が欠けている。 過疎問題の中心にあるものは、生活面での暮らしにくさというよりも、農山漁村の固有な農林漁業の 行き詰りである。<国民所得倍増計画>による1960年代前半の地域開発は、工業化を優先する基本方針 にそってすすめられていった。そこでは、日本農業の効率的再編成が農業構造改善事業によって推進さ れ、山村や漁村の農業は非効率であるとして切り捨てられていった。外材依存の木材政策は、日本の山 村と林業を荒廃させ、さらに石油資本に従属するエネルギー政策によって、山炭地から石炭を、山村か ら木炭生産を追放してしまった。 農山漁村に固有な農林漁業が行き詰ってしまっては、住民は暮らしてゆくことができなくなる。仕事 と所得を求めて、農山漁村の人口は都市と工業地域に向けて移動し、その結果として生じたのが、農山 漁村での過疎問題である(1)。 今井幸彦氏も「人口減少イコール過疎ではない(2)」として、右のような観点にちかい著書をあら わしている。 筆者もほぼ右の観点に立って調査報告をまとめたつもりであり、何ら異論をとなえるものではない。 昭和58年度版『過疎白書』によれば、都市の過密問題が深刻化したこと、国・自治体の過疎対策が推進 されたこと、高度成長が終焉したことの3点をもって、人口の地方定住志向が高まったとしている(3) 。それならば過疎地域の未来は少しは明るいことになるが、私達が今回調査したいずれの地域でも、そ の期待は裏切られた。 では、過疎を促進させたその地域固有の原因とはいったいどのようなものであったのか。大局的な原 因としては右のようであるとしても、もっと地域的な現れに注目したいと言うのが、本稿の問題意識で ある。ともあれ、天竜川水系に属する5町村の過疎の実態について足を踏み入れてみよう。尚、長野県側 には、本稿でとり上げた南信濃村と接して、上村、泰阜村、阿南町、天竜村などの過疎町村があるが、 今回は調査対象に含めることが出来なかった。また、いわゆる過疎問題に対する地方自治体の対応も問 題意識にあったので、町村役場中心のヒアリングにかたよった。資料提供をしていただくとともに、地 域の実情について包み隠さず話していただいた担当職員の方々、それに民間人の方々に心から感謝する 次第である。尚、龍山村役場には、都合により今回は行くことが出来なかったことをあらかじめ断って おきたい。 (本文中敬称を省略させていただいたところがある点についてもお断りしておきたい。) 1、水窪町 水窪町役場 水窪町については、水窪町役場、株式会社杉山製作所水窪事業所、水窪大井電子株式会社、守屋たか の4カ所についてヒアリング調査をおこなった。まずヒアリングの順に従って、水窪町役場のヒアリング 結果から紹介していくことにしよう。 水窪町役場からは、小沢清孝町長、森下弘健企画管理課長、春川仁経済課長、井上正勝総務課員、水 口利昭総務課員の出席が得られた。以下出席者の話を総合して、水窪町の過疎及び過疎対策の現況を描 いてみよう。 まず人口の動向については、昭和30年に、佐久間ダムの建設工事が行なわれたことが注目される。こ の時工事関係者が増え、人口が1万人余を記録し、昭和42、43年の水窪ダム建設の時にも伸びたという事 情がある。この頃から人口の減少が急速になり、それは若者を中心とした都市への流出であった。人口 の流出先は、浜北、浜松を中心とした県内の西部地区、若者は、浜松、豊橋、名古屋だと言われる。若 者という場合、高校進学の段階ですでに域外流出がみられる。すなわち、水窪町の中学校から高校へ進 学する場合の高校は佐久間高校だが、かなりの数のものが、大学進学を目指して、袋井、磐田などの高 校へ進学する。そして中卒で就職する場合にも、そのすべてが町外就職という情況である。(昭和60年度 の場合)後述する、町の最古労の一人である守屋たかさんの3人の孫も、それぞれ東京の大学、飯田と佐 久間の高校へ進学している。水窪から浜北あたりへ通勤している人はいない。事実、浜北市の北にある 天竜市へ車で1時間10分かかるので無理と思われる。かつては、ヤマハ車体が車で人を迎えにきていたと 言う。しかし、今ではそういう人達もそちらへ移ったと言う。(いわゆる挙家離村) こうした中で企業誘致を積極的に行なってきたが、その条件として掲げてきたのは、@地元雇用、A 公害のない企業、B賃金較差がないことの3点であった。昭和60年の1月で、約500人が働いており、税 収、家計の両面で町を潤していると言われる。すなわち、「企業が町財政にどれほど貢献しているかは 、数字的には把握していませんが、町民税で相当のウエイトをもっているのだろうと思います。単純に 比較すると、就労者の給与として誘致企業が10何億円を出している。今、木材が低迷している時に比較 するのは変な話ですが、基幹産業とされる林業の額よりも大きな額を占めている。これが即、町の中で 落ちていると言う訳ではありませんけれども、大きなウエイトをもっていると言う考えをもっておりま す(4)。」と述べられている。しかし、企業誘致はこのような肯定的な側面ばかりでなく、つぎに杉 山製作所と大井電子のヒアリング結果で示すように、否定的側面のあることにも目を向けなくてはなら ない。 現在、水窪町と長野県を結ぶ道路は、図にみられるように、国道152号線が、青崩峠の部分で未開通で あるため、東へ迂回して兵越峠を越える林道によらなくてはならないが、この道路は、細く、カーブが 多く、急坂であるため、152号線の早期開通着工を期す、期成同盟会が、水窪町、長野県南信濃村、上村 、飯田市で作られ、運動が行なわれている。これが実ってか、昭和60年度に、7・8キロメートルの未開 通部の目途がたち、用地の買収をはじめとした事業費約6千万円が計上され、測量も開始された。しかし 、筆者には、道路建設や整備は過疎を促進するのではないかと言う疑問があり、最近の新聞報道にも、 その点の指摘があったので(5)、質問をぶつけてみたが、回答は次の通りであった。 「今まで道路をつくると引っ越すと言うわけだが、やはり道路は必要ですよ。山道にしても林道にし ても、一軒上がってもつけてやる。こういう山村では、道路についてやはり、どうしても財政力が弱い ものですから、補助金を貰わなきゃ出来ないんですよ、実際は。その場合いに、開けてゆくには林道が 一番よい。林道、農道で(補助金を)貰って開けたのが、それが生活道路でもあったと言うことなので、 多少そういう位置にあったかも知れないけれども、同時にこれからの道路についても、水窪の場合、林 道も道路なので、道路は、今林業が弱いだけに、今やっておかないと。この在が必要な時に、また出す ことが出来ないようではしようがないですから。道路によって、伐採、搬出も相当コストが安くなる。 林道、作業道が入ったところの辺は、管理がよく行なわれるのは事実なものですから(6)。」 毎日新聞社静岡支局に勤務したことのある沢田猛氏は、昭和33年と46年に相ついで建設された林道白 倉川線と林道白倉川線によって、草木、大嵐の集落を中心に、「人口流出のなだれ現象がまったくブー ムのようになり、とどめようがなかった時期があったと言う(7)。」と記している。 しかし、道路建設と過疎との関係については、一概には言えないむつかしい面があり、以下順に紹介 していくところである。 さて、水窪町の残された問題は、近年大分県にはじまり、今や全国に広まって流行の感じさえする、 一村一品運動に代表される村おこし運動についてである。これは今回の調査の主要の目的の一つでもあ った。 水窪町の村おこし運動としては、村おこし委員会推進協議会があり、各界の参加によりすすめられて いるが、そのなかで手がけたのが、春野町と佐久間町の境界を北上し水窪へ通じるスーパー林道沿いの 山住み神社周辺の開発である。またそれより前、民間人の手でつくられたキャンプ場(みさくぼビレッジ )も「村おこしの気運」であったと言われている。ごく最近では、町でとれるニホンジカを使ったシカ 肉の薫製の例がある(8)。また、これは村おこしとは無関係だが、天竜市、春野町、佐久間町、龍山 村とともに、一市四町が行っているプレカット事業があげられている。しかし、まだ始まったばかりで 、これからという域を脱していない様に思われた。 株式会社杉山製作所水窪事業所 水窪町役場のヒアリングを終え、前もって役場から紹介されていた杉山製作所水窪事業所を訪問した。 同工場へは、今回の私達の調査のA世話役Bの森下弘健氏も同行してくれた。同事業所は、日産自動車 の下請会社である富士鉄工の仕事をしており、湖西市に本社があり、ここではクラッチ板、ミッション を作っている。昭和46年に水窪事業所を開設した時は、現在の場所よりももっと奥地にあったが、10年 後の昭和56年9月に新工場へ移転した。我々の調査に応じてくれたのは、所長の杉山和夫氏と社長の高氏 一司氏である。現在40名の従業員がいるが、最大の問題の一つは、やはり従業員の高齢化であり、多品 種小量生産という親会社からの要請へなかなか対応出来ないと言うことである。 次に問題なのは、従業員の欠勤率が高いことで、これは水窪大井電子をはじめ、山村における企業経 営全般に共通する問題である。では、これはどういうことなのか。つまり、水窪の場合には、お茶とか 椎茸の収穫の時期になると、3日とか1週間を欠勤してしまう。その時期時期のもので畑仕事、それに冠 婚葬祭で休む場合もあり、会社としては板ばさみの恰好になる。それでも、お茶の場合には、これは一 番茶の時期が、場所によって違うが、大体ゴールデン・ウィークの頃で、自家消費部分をやったら後は やらないという形で、欠勤率が少なくなり、以前と較べて5分の1になったと言う。というのも、自動車 部品の場合、今日納品したものを明日日産自動車で組み立てるという方式になっており、作りだめをし て欠勤に対応することが出来ないことと、なるべく在庫を少なくして他へ経費を回さねばならないとい う下請会社の悩みがあるからである。ここに自動車関連下請会社の特殊事情が読み取れよう。 もう一つ困難な問題として、従業員がなかなか結婚しないということがある。そのために会社として 思い切った投資が出来ないと言う形で影響が出ている。まず、次の表1によって、40歳までの男性につい て、未婚者の数を見よう。10代後半は別にして、20歳から40歳までの22名の男子従業員のうち結婚して いるのはわずか7名(32%)にすぎないことが分かる。その理由については、一つは結婚をしたがらないと いう「時代の波」と、もう一つは、「長男長女しか残っていない。嫁さんに貰いたい、婿さんに貰いた いというのが多い」という「水窪という地域性(9)」もあるのではないかといわれる。これに対して は町のほうでも協力はしているが、「結婚奨励金を出していいものかどうか。」と小沢町長も打つ手が ないという表情であった。
表1
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年齢 |
15〜18 |
19〜20 |
21〜25 |
26〜30 |
31〜35 |
36〜40 |
合計 |
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従業員数 |
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未婚者数 |
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152号線の開通問題については、自動車を中心とした浜松の機械工業と、時計、カメラから始まった諏 訪の精密部品とは、性格が違うので、仕事の面ではあまり恩恵はないが、人の交流の面ではあるだろう としている。それよりも問題なのは、水窪以南の既設の152号線の改良で、「拡幅なり、トンネルで近く してもらわないと、そういう面での期待はすごくある」という。現に、水窪町の場合、国道152号線が台 風、大雨等で交通が遮断されると、迂回路となる幹線道路がなく、ほぼ孤立した状態となる。北の長野 県側へ通じる国道が未開通とあっては、これを何とかしなければと言う気持ちは、痛いほど良く分かる のである。所長の次の言葉がそれを物語っている。「水窪に住んでみて、まず第一に、日本地図のうえ で、ここは通れる道だよということをしないと、水窪は人が来ないネ。根本的に道を通すことが絶対条件 だ。それなくして水窪の繁栄はないネ。通るだけでも通ってみてもらえなくてはだめ。袋小路だったら 、本当に来る人がない。通るだけでいいんですよ(10)。」 水窪大井電子株式会社 次に訪れたのは、水窪大井電子株式会社であるが、これも杉山製作所と同様に、誘致企業の一つであ る。昭和44年に水窪へ進出したが、これは副社長が水窪の出身者であったためである。本社は、横浜市 菊名にあり、主力製品は、電力会社の搬送電話であるが、最近はエレクトロニクス関係へ脱皮しつつあ る。水窪での唯一の最先端工場だ。私達の相手をしてくれたのは、数日後には5年間の勤めを終えて本 社へ戻る予定の池田信男工場長と、この春から当地へ赴任した庄司桂三郎新工場長の二人であった。 同社では杉山製作所と違って、今つくったものを今日出すということがないので、「少しのんびり」 しているが、それでも欠勤率の問題はある。池田信男氏によれば、農繁期に休むというのは殆どなくな ったが、冠婚葬祭等によるものはまだまだある。お茶の時期には、前だと1週間くらい休んでいたのが、 今では2、3日ですんでいるし、休む人数も減ってきているという。ここでもやはり、地域経済の主体が 農業よりも工場へという方向へ変わってきているということが出来る。それから杉山製作所でも指摘さ れたことだが、新技術への対応が難しいという点がある。工業高校卒程度の人材が得にくいので、本社 での研修や実際のラインの中で修得させているといわれる。 杉山製作所と異なるところは、道路に対する考え方である。すなわち、同社の場合は先にも述べたよ うに、「比較的軽薄短小のところでやっているので、輸送コストはそう問題はない。」むしろ、池田信 男氏は、「これは私の個人的な考えですが」と前置きして、次のように述べている。印象的であったの で、少々長いが引用して置く。 「152号線開通に対する期待は、長野に対するのはそれほどではない。先生がおいでになったことのな かに過疎というのがあり、やはり町のなかに152号線の開通、浜松へ短時間で移動できる道路の期待があ るんですが、逆にある面では人の流出ということもでてくるのではないか心配もあります。単なる通過 道になってしまわないか。そういうデメリットも考えていかなくてはならないような気がするんです。 途中のカーブの多いところをまっすぐトンネルにしていくと、天竜、浜北へ40分くらいでいけるように なり、通勤可能範囲になる。私自信浜北からここへ週2回通っていたが、毎日だと3年で車がダメになっ てしまう。経済的収入源が向こうにあるので、出ていくと言う可能性があるのではないか(11)。」守屋たか ところで、この152号線というのは、長野県側(信州側)を秋葉街道、静岡県側(遠州側)を信州街道と 呼んで、春野町にある秋葉神社参りの街道として賑った時代があった。それはまた、「塩の道」とも呼 ばれ、信州側からは米、麦などの農産物、遠州側からは塩、魚などの海産物が馬の背を頼りに運ばれた のであった。また152号線と平行して流れる天竜川が、上流の木材の搬送と物資の流通に大きな役割を果 たしたことは周知の通りである(12)。この「塩の道」を新しい時代の視点から見直そうという民間 人の動きすらある(13)。また、かつて信州側には、製糸工場が多数あり、遠州方面から青崩峠を越 えて、また逆に信州方面から三河、遠州側へ、女工の移動があった。「遠州版野麦峠」である。この女 工哀史については、沢田猛氏の前掲書に詳しい。 守屋たかさんは、20歳の時に長野県上久方村から水窪へ嫁いで来て68年、88歳になる。現在、水窪町 の最北端、青崩峠にさしかかるところ、池島という集落に、水窪でタクシー会社を経営する息子さん夫 婦と佐久間高校へ通うお孫さんと4人でひっそりと暮らしておられる。明治、大正、昭和にかけての、信 州街道、秋葉街道の人の行き交う様子を思い出しながら、ポツリ、ポツリと語ってくれるたかさんの表 情には、当時の山村の厳しく、困難な生活を少しも感じさせないほど明るいものがあった。それも今に して思えば、突然の街からの訪問者への思いやりであったか。 図に示したように、守屋さん宅から青崩れ峠へかけての信州街道沿いには、往時の人的、経済的交流 を偲ばせる。遺跡≠ェいくつか見られた。かつては、この青崩峠を越えて嫁いでいく花嫁もあったと いう。具体的な点については、『調査結果』のほかに、注12で掲げた文献を参照されたい。翌日、私達 は徒歩で青崩峠を越え、まだ国道飯田線のなかった頃の、旅のひと≠ニなり、この目で往時の人的 交流≠実証≠オてみたのである。長野県南信農村木沢の村松康男さん宅が見えたのは、午后3時すぎ であった。 2、長野県南信濃村 村松工房(村松康男) 私達は前もって、南信濃村の村おこし運動の事例として役場から紹介されていた、村松康男さんを訪 問したが、同氏宅は、南信濃村からやや北にはずれた小さな谷あいにひっそりと立たずんでいる。200 メートルほど離れた所には、毎年12月10日に霜月祭が行なわれる八幡神社がある。国指定重要無形民族 文化財である霜月祭(14)も、最近の過疎化現象で舞い手を失い(15)危機に瀕している。村松さ んはもともと林業家であるが、近年の林業の不振もあって、土木関係の仕事をしながらやりくりをして きた。昭和57年の10月から木に関する知識を生かして、木製民芸品の製作、販売を始めた。その転業 ≠フ動機を、同氏は次のように語っている。 「はっきりした名分はなかった。自分というものが若いうちは分からなくて暮らしていたんだけど、 ふり返ってみる機会がありまして、何もなかったということに気がついて、それから何かやっておいた ほうがいいと、自分がずっと生きたいという欲望から始まったもので、先生が言われるような命題には とても。とにかく仕事が木に関係していたものですから、まだまだここには木もあるし、動機はそんな ものでした。木を削り切って、木のいいとこばかり、木の精だけをものにするという考え方ではなくて 、風雪に耐えた木をそのまま生かせれりゃ、というような、それをいかに生かせるかで、自分もそこに 生かせるとという気がして始めたものです(16)。」 昨年(昭和59年)9月には、埼玉県の田辺製薬に勤めていた息子さんも康男さんの仕事を手伝うためにU ターンをして来た。木曽地方の伝統工芸と違って、ここにはろくろ師はかつて一人もいなかった。それ だけに、村松さんのような村おこし≠ノ対する期待は大きく、南信濃村役場でも産業課や教育委員会 で支援をしている。 信州名物の信州そばを御馳走になり、私達は村松さん宅の前からバスに乗り、宿をとってある水窪へ 向かう。途中南信濃村の中心部和田で大勢の高校生を乗せる。当日は日曜日。南信濃村には高校がない ので、彼等は飯田の高校の下宿先へと帰って行くのだ。恐らく、土曜・日曜と家族と共に過ごしたのだ ろう。心なしか彼等の制服の後ろ姿が淋しく写る。終点平岡で今度は飯田線に乗り替える。彼等のほと んどは下り、つまり飯田方面行きに乗る。私達は彼らと逆方向、水窪へ向かう。平岡から水窪の手前の 大嵐(先に記した大嵐と違い、国鉄飯田線水窪駅の一つ飯田よりの駅名をさす。)までは、かつての天竜 下りでも一番の難所とされるところ。蛇行し、また蛇行し、佐久間を経てその水は二俣へ向かい、やが て遠州灘へ注ぐ。しかし、私達が眼下に見おろす天竜川にはかつての面影はない。昭和31年に建設され た佐久間ダムによって、川は湖となり、その水は蒼く心なしか濁っている。川は電力資本によって管理 され、その生命の鼓動はついに伝わっては来なかった。 南信濃村役場 私達は翌日、再び南信濃村を訪れた訳だが、今度は兵越峠を車で走り、入村した。南信濃村役場の応 接間に案内されたが、そこには昨日訪れた村松工房の寄贈になる、大きな木製の花瓶が飾ってあった。 ヒアリングに応じてくれたのは、鎌倉直衛企画室長、山崎邦春産業課長、下平正春教育長、近藤吾郎総 務課長の四氏であった。 同村の産業構造の大雑把な動向については、まず、一次産業が就労人員で大幅な減少を示し、二次産 業が横這ないし若干増、三次がわずかながら増加というところだ。主要な工場としては、天竜電子と興 亜産業があり、どちらも誘致企業である。砥石の高倉鉱業も誘致。その他には、木材関係が3社あり、土 木建設が7社、ブロック工場が2社ある。大昭和製紙の子会社で長野大昭和があるが、経営存続が危ぶま れている。その他働く場所としては営林署、村営の授産所、役場などがある。第一次産業は、明治の後 期から養蚕、こうぞが中心で、第二次大戦後はこんにゃくもあったが結局は林業が主体であった。かつ ての秋葉参道の宿所であったことから、中心部の家並みも当時の残影があり、家が密集≠オている。 人口の動向は、昭和30年の6,563人をピークに減少の一途をたどり、昭和60年5月1日現在で3,210人と 半減している。昭和40年代の激減は、「都市と農山村の地域拡差・所得較差による世帯ぐるみの転出や 若者の流出が続いた結果である(17)。」とされている。ここ2、3年は20から30名くらいの減少で、 中学生が高校へ進学したり就職したりで出ていく数であるといわれる。高校生は今108人在学しているが 、阿南高校が41、残り67が飯田の高校である。75%が下宿をしている。高校生の就職者は県外が比較的 多く在村率は6%、名古屋が一番多く、最近は静岡県も多くなっているという。この6%という在村率は 他の町村に比べて高く、阿南地区にはこの傾向がみられると、下平教育長は述べている。 村外への運動については、手元にある地図を見ても分かるように、飯田市へは1時間半かかるのでまず 無理である。このように南信濃村は、ある程度の地域的孤立性を保持しており、そのことが下平氏の指 摘する在村率の高さになっているのではないかと考えられるが、詳細に分析しないと明言は出来ない。 勿論、先にも述べたように、一時経済成長が始まった時、挙家離村が雪崩のように続いた。しかし、阿 南町、下条村、泰阜村、天竜村、上村それに南信濃村を包括する下伊那郡の中では、小中学校の生徒が 下条村の次に多いという。 次に152号線の開通など、南信濃村の道路事情と道路に対する見解とを見てみよう。まず地図の上で南 信濃村と他地域との交通を見ると飯田、豊橋方面へ出るには、村の中心部和田からだと、遠山川に沿っ てバスで下り、国鉄飯田線を利用する。道路は同じく遠山川に沿って平岡へ下って、そこから天竜川沿 いに県道を走って佐久間町で国道152号線へ出るか、国道151号へ迂回して南下するしかない。前者のル ート、天竜川沿いの県道は急カーブが多く、運転には注意を要する。また兵越峠を超えて水窪町内を南 下することも出来る。飯田への道路は上村の遠山を経由して、小川路峠付近でトンネルでつながっては いるが、国道152号線は未開通である。このようにかなり地理的孤立感が強く、村の中の国道沿いには、 あちこちに「152号改良促進」の立看板が見られる。 道路の利用については、木材関係は湖岸道路から151号線で運んでいるほか、兵越峠を利用している業 者もあるという。トンネルで152号が開通すれば、コストと時間が相当改善されるという。それから悩み の種になっているのは、冬季の凍結で、観光にしても入って来れないという。また道路が狭いので大型 バスが入れず、全国的規模の集会があっても、小型にわざわざ乗り替えて入って来る情況である。飯田 への道路については、もしこれが開通すれば通勤圏になり、現に飯田から村へ戻りたいという人もいる といわれる。このように道路に対する期待が強い。霜月祭も今は相当運転のベテランでないと来れない が、道路が開けば相当期待できるといわれる。 このような道路に対する期待は、村がこれからすすめようとしている村おこしともかかわっている。 今産業課を中心に考えられているのは、梅を加工して出すこと、そのための加工場の建設である。お茶 については、静岡茶に押される傾向があり、ヤマメの養殖については、水と場所の関係で難点があると いわれる。観光面については、村に残っている伝承文化との関連での観光が大切で、最近秋葉街道への 観光が増えている。また山には植物の種類が多く、残された資源をどのように活用していくかが村の課 題だとされている。 青崩峠は地崩れ地帯であり、峠から南信濃村側に数百メートルにわたって崩壊個所がある。峠から眺 めると、すべり台のように地崩れ地崩れしているのがわかる。しかしその地崩れ地帯には、数箇所の地 崩れ防止用の堰堤が建設され、その中には土砂が満杯に埋まっている。峠からすぐ下の角度45度はあろ うかと思われる急斜面には、コンクリートが一面に吹き付けられ、付近の濃い緑とは対象的に、あらわ な姿をさらけ出している。 この下のこうろしというところに、12、3戸から成る集落があったが、危険なため集団移転をし、現在 村が建設したひぐち団地へ入居している。これは過疎対策の集落整備事業で、将来的には入居者の持ち 家になる。村には、このようなかたち、あるいは挙家離村による空き家が多数残っている。この空き家 を都会の人に提供して山村の夏を過ごしてもらい、同時にイベントを催したり、お茶など村の産物を買 ってもらおうと計画中だ。東京のふるさと村センターを窓口にして呼びかけたところかなりの反響があ ったという。 3、佐久間町 佐久間町役場 私達が、先に記したように平岡から湖岸道路を南下し、佐久間ダムを通過して、佐久間町役場へ着い たのは午后2時を少し回った頃であった。前もってアポイントをとっておいた佐々木信季企画課長、それ に芝垣人士企画係長に挨拶をして、さっそく佐久間町の現状について語ってもらった。 まず人工の動向について、佐久間町の合併(昭和31年)以前、旧佐久間村に王子製紙の工場があり、こ れの閉鎖によって、かなりの人口流出を見たところにまで溯る。そして、昭和31年9月、旧平川町、佐久 間村、山川村、白西村の1町3村が、佐久間ダムが建設された(昭和28年着工、31年4月運転開始)佐久間村 を中心に合併し、佐久間町制が敷かれた。合併直前の30年の国調による1町3村の人口は26,671を数えて いた。もちろんこの中には工事関係者も含まれている。それがダム建設後、順次労務者等が転出し、人 口の減少傾向が見られるようになる。昭和30年代半ばから始まった高度経済成長によって若者の流出が 顕著となった。飯田線による中京方面との交流が盛んなことから主として、名古屋、豊橋への流出が目 立った。40年代に入って、人口が18,000から16,000へと減少してくるが、まだそれほどの危機感はなく 、昭和45年4月に制定された過疎地域対策緊急措置法では、過疎地域指定の要件として、昭和35年から昭 和45年への人口減少率が10%以上、昭和41年から43年までの3年間の財政力指数の平均が0.4未満を掲げ たが佐久間町では、人工要件は満たしたが、佐久間ダム関連の固定資産税収が多く財政要件で該当せず 、過疎地域に指定されるには至らなかった。この頃、旧山川村にあった久根鉱山(古河鉱業)が閉山とな り、最盛期には700人くらいいた従業員が域外流出し、挙家離村をみた。昭和50年代へ入ると、まず昭 和60年度を目標にした第五次建設計画を作って、過疎対策を前面にだして企業誘致などを考えてきたが 、まだ楽観視があってうまくいかなかった。昭和54年には、佐久間第二発電所の着工が実現し、55年国 調では、9,729の人口であった。この中には、佐久間第二発電所の工事関係者、4,500人が含まれている 。この10月の国調(昭和60年)では、8,500ライン前後になるという予測をたてているという。 このように佐久間の人口減少は、域外からの資本の導入により一時的に人口が増え、その撤退ないし 関連工事の終了とともに減少していく(挙家離村)という性格が強く、これはすでにみた水窪町の場合と 傾向を同じくしている。この挙家離村については、町域の中でも最も立地条件の悪いところで起きてい るといわれ、ヤマハ発動機などへ企業バスで通勤している人も相当おり、こういう人たちの挙家離村も 考えられるとされている。 しかし最も大きな要因は、若者の流出だと考えられる。佐久間町にはすでに述べたように、佐久間、 水窪、龍山を学区とする佐久間高校があり、180名の定員をもつ。うち、5割から6割が佐久間町の生徒で ある。卒業生のうち4割から5割が大学進学で町外へ流出し、残り60人から70人の就職組も町内へとどま るということはほとんどない。これらの若者は職を求めて、豊橋、名古屋の愛知県方面、最近では浜松 方面へ出て行くのである。昭和59年の7月に佐久間部品が操業を開始したが、佐久間高校出身で就職した のはわずか1名にすぎなかった。 さて、それでは町の企業誘致に対する姿勢はどうであったか。すでにみたように、昭和40年代から50 年代の始めにかけては、ほとんど手が付けられなかった。それまでは、むしろ電源開発関連の大型の工 事を呼び込むことで「地域経済の一時的な活性が図られる(18)」と言う考えに立つものであった。し かし、昭和54年に着工し57年に運転開始になった佐久間第二発電所建設が契機になって、大掛かりな企 業誘致へとすすむことになる。佐久間第二発電所建設に伴って出た大量の残土を利用して工場用地を造 成し、前述の佐久間部品を誘致したのがそれである。昭和58年の暮のことである。新工場の稼動は、翌 59年7月であるが、現在水窪の分工場あわせて230余名が働いており、うち男子は60名くらい、典型的な 女子労働力雇用型企業である。そこに町当局の悩みがある。また、先にも述べたように、進出企業の実 績が評価されず、就職希望者が少ない。ただ若干のUターンはあるという。佐久間部品以外の進出企業 といえば、明石産業株式会社、ジャパン・アパレル・クラフト、オンワード、愛知電工、日本オートメ ーション、これらのすべてが安価な女子労働力雇用型の企業である。「企業がこんな山の中に進出して来 るには、安い女子労働力が得られるというメリットがなければ出て来ないので仕方がありません。町と しては男子労働力ということで対応しているのですが。企業は慈善団体ではありませんから……。」と 説明する佐々木企画課長の表情は外の初夏の明るい陽光とは対象的に暗かった。 次に佐久間町の町財政についてはどうか。佐久間ダム建設と関連するところが非常に大きい。佐久間 ダムはもともと、戦後経済復興のため、重化学工業の電力需要などを満たすために、国策として制定さ れた電源開発促進法のもと電源開発株式会社の手によって、地域の総合開発という謳文句に引きづられ て建設が始まったのであった。それは、アメリカ、ニュー・ディール期のTVAのように、地域会社が 一変するほどの夢を乗せていた。昭和31年に旧1町3村が合併した動機に、ダムから落ちてくる税収の魅 力というものが一つにはあった。 今、表2によって、ダム建設後の固定資産税収の動向を見ると、昭和32年には6,400万円へ、前年の3倍 以上の増収となり、昭和42年に頭打ちとなるまで、1億から2億の税収を上げている。この税収で、小中 学校の校舎の鉄筋化が図られ、他の町村の羨望の的になったのであった。しかし、この膨大な税収も、 ほぼ10年で頭打ちとなり、昭和45年には地方交付税の交付団体に転落≠キることになる。それ以降、 財政事情は悪化の一途をたどり、昭和45年に過疎地域の財政用件、0.3744を満たして過疎地域に指定さ れる。 佐久間ダム建設の功罪ということで佐々木課長が強調するのは、佐久間ダムの水を利用する愛知県や 静岡県側にしてみれば、豊川用水、浜名用水それに磐田原用水への水供給で、流域の発展に貢献はして きたけれども、「舞台になった佐久間町そのものは、どうも、村づくりのなかには、はっきりこうだと いうのが残ってなかったじゃないか。例えば、昭和40年代の後半あたりに上がっていたならば、もっと もっと個の町そのものの作り方は、変えることが出来ただろうなという話がとりざたされる。それは死 んだ子の年を数える話ですが(19)。」という点である。 こうした反省は、今後の国の電源立地政策への対応にも表れている。つまり、現在電源開発にあたって 、水力よりも電子力の方が、発電量1キロワットにつき支払われる電源三法交付金が3倍高くなっている。 同じ電気がつく1キロワットなら、水力も原子力も変わらないではないか。山間部の町村というのは、住 民が意識的にもおとなしい。そういう国への協力があるではないか。それは同じ単価で出してくれなけ れば協力しませんよ、というような意見は、逆に昭和31年当時だったら聞かれなかったに違いない。い ずれにしても、佐久間ダム建設は地元佐久間町へ大きな教訓を残した。その教訓とは何か。いちどこの ダム建設のもたらした地域経済社会への影響の決算書を書いてみる必要がある。
表2 固定資産税の推移(単位千円)
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昭和31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 |
16,948 61,260 75,530 90,483 95,949 109,763 141,541 139,518 177,893 187.811 221,812 264,426 261,490 257,276 252,207 |
備考:佐久間町資料より 企業誘致の功罪というものにも目を向ける必要がありそうである。佐久間町の場合には、南信濃村と 違って企業誘致がここへきて積極的に行なわれ、そのことも一因となって、住民のサラリーマン化が進 んでいる。また町の産業構造も、昭和45年当時、第一次産業、第二次産業、第三次産業がほぼ均衡がと れていたのに対し、昭和50年代に入って、一次の減少と三次の増加が続いた。だから、地域のなかで農 林業が基幹産業だと口では言っても、実質それに従事している人は非常に少ない。町としても、全国の あちこちで始められているような村おこしを考えてはいるが、町民の意識もサラリーマン化しているし 、どうしても尻ごみをしてしまう。もし産業構造にバランスのあった昭和40年代半ばなら話は違うので すがという。一村一品運動のようなものが起こりにくい条件が町のなかに醸成されてきたのである。そ うしたことの遠因に佐久間ダム建設があるといったら言い過ぎであろうか。この点はもっと実証されな くてはならない。 最後に佐々木氏が、人が山村に住まなくなった理由としてあげる燃料革命について紹介しておこう。 氏は次のように言う。昔は、食事をつくるにも風呂を沸かすにも、全部薪でやっていた訳で、山に住む うまみがあった。ところが30年代の中頃から、プロパンが山村にも入り始めた。プロパンが入ってくる と、何も薪を拾ってきて風呂を沸かす必要はなく、都会へ行ってプロパンの燃料代を買えるだけの仕事 を見つければよい。また同じ様な時期にテレビが一般家庭に普及してきた。そうすると情報が電波に乗 って一日で入るようになって、都市と似た画一化された考え方が出てくる。この町が遅れているなと言 う判断が出てくると、受け口となる働き場所も都会にはいくらでもあった。「大きく分ければ、薪炭と いうものがなくなったことによって、山村に住む意味合いが失われてしまった(20)。」 佐久間町では、第五次建設計画が昭和60年度で終了するので、61年からは、第六次総合計画に名称を 変えて対応するという。 佐久間町を後にし、再び国道1号線を走り家路に着く。それまでの山と川と澄んだ空気、それに心休ま る縁とはうって変わって、鉄とコンクリートの東海東ベルト地帯。大型トラックの排気ガス、威容を誇 る巨大な工場。今私達がおりて来た道とちょうど同じ道を、かつて山村の人たちはどんな想いでおりて 来たのだろうか。故郷に残した年老いた父母のこと、それとも新しい職場にかける夢か。その夢は果た して実現したのか。それとも見果てぬ夢として終わったのか。もう一歩踏み込んでみなくてはならない 。 4、龍山村 龍山村森林組合長 青山宏 水窪町、南信濃村、佐久間町の実態調査を終わって約2カ月後、8月4日、今度は龍山村を訪問した。生 憎、役場の方が所用だったので、ヒアリングは龍山村森林組合のみとなった。都合よく、組合長の青山 宏氏が面会に応じてくださった。龍山村森林組合については、組合長みずから著した書物(21)もあ り、前もって本を読んで入村したこともあり、かなり立ち入ったインタビューが出来たものと思ってい る。また今回は、富士宮市で林政に携っている植松元春君も調査に参加したので、林業についてはかな りのことをヒアリングできた。ところが筆者は林業については全くの素人。的外れな質問に、組合長も しばしば苦笑いといった一幕も。 そこでヒアリング結果を要領よくまとめるのにも、かなりの困難さを覚える。そこで、森林組合の実 態については前掲書があり、最近一定の研究(22)もあるので、ので、詳細はそちらに譲り、本稿で は、青山宏氏の過疎、広く地域振興に対する考え方を概略紹介して、調査報告にかえたい。 まず青山氏によれば、山村はところによって症状に違いはあるが、今完全な衰弱症状を呈していると いう。現在の人工の都市集中政策が変えられない限り、山村の生命力の回復はあり得ないともいう。現 在、龍山村森林組合には、都会生まれの大学卒の若者が、山村での林業労働に人生の生き甲斐を求めて 、入るようになってきている(23)。森林組合の従業員160名のうち、地元出身の者も含めて、こうい う若者が30名にもなる。青山氏は、今本当に必要なことは、これら若者の定住対策をやることだという 。今これら若者のほとんどは、森林組合の寮に入居し、そこで共同生活を送っている。そこでは、仕事 を終わった後皆で内部研修が行なわれ、いろいろなテーマについて熱心な討論が行なわれている。彼等 の多くは、都市での生活に人生の本当の幸せを見出すことが出来ず、青山氏の著書『ある山村の革命』 に引かれてここへ来た者もいる。しかし、青山氏はそういうロマンは、林業労働の厳しさに対して甘い のだという。だが、彼等の多くは絶対に挫折しない。その点で、青年期の大学4カ年の教育は、実にすば らしいものだという。ところで問題は、これら若者の定住対策である。彼等が結婚し、子供が生まれた 時、龍山の教育が複式教育にでもなっていたら、村を出ていくかも知れない。だから、複式教育を避け ることと、人口の定住対策を講じることが、今一番大切であると青山氏は強調する。 だからといって、それでは何が何でも都市から富を引っ張ってくればよいかというと、それは本来の 過疎対策ではない。 昭和43年。当時、浜松や浜北市の工場から、最盛期には十数台にもなるマイクロバスが村内から婦人 を乗せて連れて行くようになり、これは佐久間町、水窪にも及んだ。これを放置しておいては、いよい よ挙家離村につながると考え、森林組合は、内外編物株式会社の下請という形で、パンティストッキン グの編物工場の経営に乗りだした(24)。この編物工場によって人口の流出に一定の歯止はかかった が、ここへ来て、昭和59年の3月末日をもって、本社へ経営が返された。理由は、一定の目的を果たした ということと、本業の林業の経営が厳しくなったことの二点である。しかし、工場自体は龍山へ存続し ている。問題なのは、この経営の移譲によって、生産性が3割上がったということである。青山氏は、こ の点を「むかっ腹が立つ」と表現しているが、その理由はこうである。山村には都市と異なって、共同 体としての一定の秩序がある。冠婚葬祭に始まり、隣組とのつき合い、婦人会、PTAといったものが それである。こうした共同体の秩序の維持に果たす婦人の役割は大きい。また、子供を医者に連れて行 くとか、すでに何回か問題にしたように、お茶の収穫、手入れ、その他農産物のその時期、時期の畑仕 事がある。こうしたことのすべてが、山村の地域社会を成立させ、また少なからず維持しているといっ てよい。山村における企業経営は、こうした地域社会の存立と真向から対立する。安価な女子労働力を 目当てとした工場進出がほとんどだからである。龍山村の編み物工場もその例外ではなかった。村落秩 序維持のために、今までは認められてきた欠勤≠ェ、経営が返されたとたん、本社からのノルマで認 められなくなり、生産性が3割アップした。欠勤≠ノよる他の従業員への影響もあったようだ。過疎 の、堰堤≠ニして一定の役割を果たした同編物工場も、林業経営の不振という事態を前にして、皮肉 にもその構造的脆弱性を露呈したというべきか、「むかっ腹の立つ」ことなのである。工場長が泣いて 言ったように、「企業経営と過疎対策は両立しない」ことを青山氏も肯呈する。しかし現代では企業誘 致もやむを得ないという。だが基本的には、地場産業の企業化でなくてはだめと指摘される。このよう に地場産業を企業化して、しかも素材形態で市場へ出すのではなくて、完成品をつくって、その価格の 決定権を山村の住民がもつようにならなければ、山村の繁栄は絶対にあり得ないと強調する。氏によれ ば、今までの流域の歴史は、下流による上流の搾取の歴史であった。下流の、つまり都市の繁栄は、上 流の、つまり山村の犠牲のうえに成り立っているというのだ。かつて人殺しまでやって水争いをやった ように、それは血で血を洗う抗争だったというのだ。この関係を逆転させることが、今必要だというの だ。 だから青山氏の発想ではその中間的なもの、たとえば観光、観光農業、文収林、流域圏構想といった ものは、いっさい排除されるのである。現掛川市長の榛村純一氏の流域圏構想を評して、これは下流の 汚濁された水に住む魚が、上流の清流に住む渓流魚を食ってしまうようなものだと笑いながら話す(25) 。現在、森林浴とか山村留学であるとか、また一村一品運動のように、都市と農村の調和≠ェ説かれ、 右にあげたような取り組みが、一定の立法措置をともなってすすめられていることは周知の通りである 。しかし青山氏によれば、そのような政策によって山村が享受するメリットは何もない。むしろ受ける デメリットの方が大きいという。観光客が都市からどっと押し寄せて入り込んでくることで、今まで静 かだった山村が一変し、水などの環境が汚染される。山村住民のモラルにも悪影響がでる。文収林はど うか。特定文収林というのは、森林を都市の人に買ってもらい、共同で育てて伐採時に売上金を所有者 と均等に分け合うという事業で、静岡県内では、賀茂村が先陣を切った導入した(26)。これから放 っておいてもすくすく大きくなるという時に、木を切って売り、しかも木を買う資格のない都市住民に 半分も持って行かれるのでは、何のために木を植えて育てたのか分からない。それまでの汗と涙はいっ たい誰のために流したのか。林家がバカを見るのはその時だと批判する。青山氏によれば、山村は雛段 の一番上に座っているお内裏様とお雛様だという。下へ行くほど、つまり下流へ行くほど人の数も増え る。だから「我々は高いところで、ゼロメートル地域に住む不定多数の人間を睥睨するというような姿 勢でいなければならない(27)」という。山村がもしこういう姿勢を崩すなら、これは敗北思想でも あるという。青山氏は、協同組合論者であり、また農本主義者でもある。観光農業が問題になり得ない ことは、ここに改めて紹介することもない。それよりも、青山氏は、戦前の農本主義思想に変わる新 農本主義思想≠フ樹立が必要であり、これなくしては、きたるべき食糧危機に際して、農民は国を守る ことが出来ないという。しかし、この点に関しては、筆者は素人なのでこれ以上にすすむことはできな い。 それでは、山村の未来はどうあるべきか。今、青山氏の胸の中には、共同村′嚼ンの夢が育まれて いる。現在の日本の「数」の民主主義に対して、ここでは共同社会の維持、運営に関するいっさいのこ とが、共同村の構成員である若者の総意により決定される。日本の政治の本流から取り残され、行き場 を失った山村は、もう誰の力もあてにせず、みずから立ち上がるしかないという、というのも、青山氏 の、山村におけるあるべき指導者論≠ノ根ざしているように思われる。これを引用してこの章の結び としよう。「僕はよくリーダーと言われるんですよ。リーダーとはどういうことか。もうリーダーとい う人間では解決できないところまで山村問題がきている。リーダーと言われる人は、見識を持っていた り人格者だと思うんですが、そういう人ではもう解決できないと思います。それはやっぱりイノベータ ーという人がいるところでなければだめだ。イノベーションを起こすイノベーターがいるところでなけ れば、在来の考え方ではどうにもしょうがない。もう名誉だの地位だの、カネだの、そんなものを考え ている人間には負えない問題だと思います(28)。」 真夏の3時間にもわたるヒアリングを終え、私達は森林組合を見学し、さらに次の目的地春野町へ向 かった。 5、春野町 春野町役場 春野町の中心部にある旅館沢田屋に宿をとった私達は、その夜は、沢田屋の主の岡本さんに色々と町 の様子をうかがうことが出来た。岡本さんは、春野町役場の保健課の課長さんをしておられる。日頃の 行政の立場を離れて、町の実情について説明して頂いたことが、翌日の役場でのヒアリングの理解に大 いに役立った。また宿での格別のもてなし、旅の途中の私達には十分すぎるものであった。 翌日私達は、スパー林道を走り、水窪町内山住神社へ足を伸ばした。月曜日のせいか人影はほとんど ない。本殿の参拝帳を見ると、地元の人の名前はほとんど見られず、浜松、豊橋、名古屋、それに三重 県が多いのが目につく。恐らく故郷をあとにした人たちが、今もなおこうして時々故郷を偲んでお参り に来るのであろう。 私達を出迎えてくれたのは、東畑辰雄総務課長であった。係長が不在ということで、あと企画係の栗 島栄一氏がくるまで少々町の状況を説明してもらった。栗島氏の話と合わせて、春野町の過疎及び過疎 対策の現況は次の通りであった。 まず人口の動向については、昭和35年の14,344から昭和55年の8,437へと減少、年間600から650の減少 であった。流出先の7割は浜松を中心とした県の西部地方、あと静岡市方面。高校は春野高校一校のみで 、中卒の段階で高校進学者の6割が地元春野高校へ行き、あとの4割は大学進学のため町外の高校へ行く という。流出の7割が西武という関係は、春野の経済圏にもあてはまり、商品の購入先もそうだ。秋葉神 社の参拝客の7割が、三重県とか岐阜県だというのはおもしろい。人工の将来予測を県の統計情報センタ ーのコンピュータではじいたところ、今のままの事態が続くとすれば、昭和75年つまり21世紀には5,854 になってしまう(29)。これは町で行なった荒削りの予測とほぼ一致するという。将来2、3年あるい は10年くらいのうちに、現在町外へ働きに出ている息子を頼って、年寄りが町を出ていくという。第 二の過疎≠ェ起こることが確実視されている。 春野町の産業構造は、大雑把にいって一次産業、二次産業、三次産業がそれぞれ3割ずつくらいで、一 次の減少と二次、三次の増大傾向が見られる。農業はお茶と林業が主体であるが、ともに他産地に押さ れて不振であり、兼業化が進行している。工業はかつて製材業が中心であったが、今は各種の誘致企業 に、その地位を譲っている。漁業は、最近あまご、にじ鱒養殖の内水面漁業が盛んになってきている。 企業誘致は、昭和40年代の始めに精力的に行われ、静岡ダーバン、関東ナイロン、静岡実験動物、美甘 製作所、桜井製作所、京浜金属工業の7社が今も操業を続けている。これらの工場は静岡実験動物を例外 として、やはり女子労働力雇用型である。ここでもやはり、お茶など地域産業や共同体秩序との矛盾が あり、静岡ダーバンでは週休2日制を取り入れたり、比較的休みのとり易いパートに切り替えるなどして 対応している。昭和55年国調で、375名が磐田市(80名)、森町(76名)、天竜市(57名)、浜松市(48名)、浜 北市(28名)などへ働きに出ており、これは就業者総数4,560名(同じく55年国調)の8%に相当する(30)。 これは都市部に近く、いつでも働きに出られるという春野町の特色を示している。またこのことは、春 野町の村おこしを難しくしている要因でもある。 春野町の産業おこしの事例としては、ログ・キャビンの製造販売、ヤマメの養殖、しめじの製造販売、 観光物産センター、貸別荘、テニスコート、みやこ忘れの販売などがあり、これらはいずれも、農業や 業者の副業としてやられているものが多い。町当局が関与しているものとしては、住宅団地の造成、分 譲、ふるさと会員制度、一地区一産品運動、地区別振興協議会がある。一地区一産品運動は、大分県の 一村一品運動をモデルにしたものである。今までのところ、ログ・キャビンとか秋葉しめじのようなも のができないかということで趣旨説明に入ったところだという。だから種をまいている段階で、まだ実 になったものがない。地区別協議会というのは、町内を8つのブロックに分け、そこで町民と役場の職員 が一緒になって話し合い、地区の振興計画を練り、将来的には町の人口を、昭和70年までに9,000人、21 世紀には10,000人にもっていこうというものである。悪くても、人口減少のカーブを少しでも上向きに したいというものだ。この地区別協議会は、一種の精神啓発ないしは意識改革であると言われる。先に も述べたように、中卒の段階での進路指導にも関わらず、その時点で域外へ流出してしまう。せっかく 企業誘致をしても、就職希望者がいない。現に今年60年に操業を始めた静岡実験動物でも、人が集まら ないために工場の拡張ができない。今勤めている65名の従業員の内20名は浜北から連れてきたという。 また、次のようにも言われる。 「うちはいつもこういうことを言われるんです、春野町は過疎だけど、本当に困っているんじゃない よと言う言い方をされるんです。困っていればもっと真剣になって考えるんだけど、困ってくれば浜松 へ通い、カネを取って来ればいいと。だから地域としての産業を興こしにくいということがあるんです よ。浜北や天竜へ通えるんですね。だから地域で産業を興こそうとしても、中核となる人がそういう形 で考えている人もいるんですよ。それと割と資産を持っているから、資産を売れば当分は困らないとい うこともあるんですね(31)。」 だから「小さい時からどういうしつけをしてきたとか、中学校の進路指導の先生がどういう指導をし てきたかといったこととも噛み合わせていかないと」というのがこの精神啓発のねらいである。豊か さの中の悩み≠ニいうことであろうか。一地区一産品にしても、緑の開発委員会にしても、より豊かに なろうという発想であり、その点で貧しさの中から桃や栗を植えていった大分県の場合(32)とは違 うんだと栗島氏は強調する。 おわりに 以上、静岡県の西北部、長野県及び愛知県と背中合わせに位置する5つの過疎町村について、その実情 を、人口の動向、産業構造、企業誘致、道路、財政、村おこしの6つの点について、不十分ながらも、聞 き取り調査をもとに述べてきた。ここで改めていう必要もないかも知れないが、いずれの地域について も、人口流出は北から南へ≠フルートですすんだことである。国鉄飯田線は、かつて豊橋−辰野間を 走っていた豊川鉄道(豊橋−長篠)、鳳来時鉄道(長篠−三河川合)、三信鉄道(三河川合−天竜峡)、伊那 電気鉄道(天竜峡−辰野)の4私鉄会社でそれぞれ経営されていたものを、昭和18年、国鉄が戦時買収鉄道 として一括して買い上げ飯田線と命名したものである(33)。この飯田線と国道152号線が人口流出に 果たした役割は実に大きい。南信濃村の人口流出席が主として豊橋、名古屋方面であること、佐久間町 は、中京方面と浜松方面が半々、水窪町も同じ傾向。毎年3月になると大勢の若者を乗せた汽車が、これ ら町村にある飯田線の各駅を父母兄弟が見送る中発車していったことは容易に想像しうるところである。 ひとり春野町のみが、愛知県方面が少ないのは、飯田線が町内を走っていない理由と思われる。 浜松、浜北それに磐田といった工業都市が、これら山村から大量の労働力人口を吸収したこともまた 疑うことのできない事実である。マイクロバスで人を集め、時には婦人専用マイクロバスまで出現して 、挙家離町を引き起こした。都市部から隔絶され、しかも道路事情の悪い南信濃村では、こうした型の 挙家離村の話は聞かれなかった。静岡県西部地方は、戦前からの繊維、楽器、それに戦後のオートバイ を3大産業として発展し、近年エレクトロニクスへの展開を見せている。国の高度成長と平行して工業力 は飛躍的に伸び、安価な労働力を求めて、その触れ手は山間の静かな部落へも伸ばされた。同時に、ラ ジオ、テレビ、電気洗濯機、自動車といった、日本の高度成長を代表する工業製品がどっと流れ込んで きた。山村と都市の生活面での差がなくなり、山村の住民はこの生活様式を維持するために、新たな所 得源を見い出さねばならなくなった。林業と農業の不振がこれに拍車をかける。山村の自治体も住民の 要求に応え、かつ地域社会の維持のために、所得源を確保しなくてはならないが、農林業がかかる状態 だから、企業誘致に頼らざるを得ない。これらの企業は、東海道ベルト地帯にある本社の生産工場か、 下請会社の工場である。生産性向上が競争力強化の大きな条件であるから、これら企業の論理と地域社 会の論理は随所で衝突し、山村の共同体的性格が益々薄れるとともに、山村住民をして地域の農業をみ ずから放棄させた。地域社会の崩壊の原因へと転化≠オていく。勿論これには人口の流出を一時的に 食い止めたという役割が認められなければならない。 他方、天竜川とその支流に建設された巨大なダム(佐久間ダム・水窪ダム、新豊根ダムなど)は、下流 の電力と水の需要を満たしたかわりに、川の流れを管理≠オた。この電力資本は、それのみならず地 域社会のあり方をも管理≠オた。ダムに水没し、家を失った住民は行き場を失って都市へ流出した。 保償金を手にして一獲千金を夢見て都会へ出、失敗して悲惨な末路をたどった者もいる。ダムや発電所 の建設による一時的経済的波及効果を期待しはしたが、結果的にそれは工事終了にともなう人口流出と 、のちの財政危機をもたらし、過疎といういまわしいレッテルを貼られる原因となった。 都市部から直線距離にして50キロと離れていないこれらの山村は、都市の影響を受けやすい。都市部 に大型ショッピングセンターができれば、購買力が流出し、地元の商業は停滞する。これらすべてのこ とが悪循環して人口減少はとどまるところを知らない。 これに対して、ここ数年の間に、人口減少が鈍化し、都会からのUターンも増えるなど、地方定住 の傾向が現れたことも事実である。ふるさと会員制度、村おこし運動と称して、山村の地域経済の活性 化の試が広く行なわれるようになった。しかし、いずれの地域においても、第一次産業の衰退で、この 運動の基盤は脆弱なものとなっている。それに住民のサラリーマン化した意識が、障害となって立ちは だかっている。これを打開しようとすれば、春野町のように勢い精神啓発♂^動へと進まざるを得な い。過疎地域は今このような矛盾の渦の真只中にいる。それでは抜本的な対策はどうあるべきか。もと より、このような調査報告では、軽々しくそのような大問題に答えられるはずがない。本稿では、天竜 川水系の文化圏として一定のまとまりをもった過疎地域について、その地域に固有な過疎の原因なり実 態なりをとりまとめたにすぎない。はじめにも述べたように、調査対象が限られており、資料的な裏付 けも不十分である。以上のような課題については今後の研究をまつしかない。 注 (1) 大阪市立大学経済研究所編『経済学辞典』(第二版)岩波書店、1979年。 (2) 今井幸彦著『日本の過疎地帯』岩波新書、1968年、9ページ。 (3) 国土庁地方振興局過疎対策室監修『過疎対策の現況』昭和59年4月、10ペ ージ。 (4) 静岡地方自治研究会『静岡県過疎地域実態調査結果』1986年1月、1ページ。 (5) 「静岡新聞」1985年4月29日。 (6) 『調査結果』5ページ。 (7) 沢田猛著『くにざかいの記録』伝統と現代社、1981年、62-72ページ。 (8) 「朝日新聞」1984年2月20日。 (9) 『調査結果』7ページ。 (10) 『調査結果』9ページ。 (11) 『調査結果』13ページ。 (12) 南信遠のかつての交流については、『南信濃村村史』、『水窪町史』、 (上・下)、石川純一郎著『天竜川−その風土と文化−』静岡新聞社、昭和 55年、西野綾子編『天竜川』ひくまの出版、1980年、に散見される。また、 天竜川の人の往来については、沢田猛氏の前掲書を参照。 (13) 静岡県環境と資源シンポジウム実行委員会「21世紀の社会と環境保全」1 985年。 (14) 南信濃村教育委員会他「はるかなる遠山郷南信濃村の史跡・風土」 (15) 沢田猛前掲書、149ページ。 (16) 『調査結果』20ページ。 (17) 『南信濃村過疎地域振興計画』4ページ。 (18) 『調査結果』26ページ。 (19) 『調査結果』31ページ。 (20) 『調査結果』37ページ。 (21) 青山宏著『ある山村の革命−−龍山村森林組合の記録』清文社、昭和54年。 (22) 長沢利明稿「村づくり運動の現在−−静岡県竜山村巡検報告−−」法政大 学地理学集報刊行会『地理学集報』1983年12月号所収。 (23) 「朝日新聞」1984年6月8日付朝刊にこれら若者の紹介記事がある。 (24) 青山宏前掲書、118-123ページ。 (25) 『調査結果』58ページ。 (26) 「静岡新聞」1985年1月18日。 (27) 『調査結果』48ページ。 (28) 『調査結果』59ページ。 (29) 「春野町統計書」昭和59年3月、85ページ。 (30) 「春野町統計書」26ページ。 (31) 『調査報告書』66ページ。 (32) 平松守彦著『一村一品のすすめ』ぎょうせい、昭和57年。 (33) 沢田猛、前掲書、38ページ。